任孝恭(孝恭)
- 任孝恭は字を孝恭といい、臨淮臨淮の人。曽祖の任農夫は宋の南豫州刺史であった。孝恭は幼くして父を失い、母に孝を尽くして学に励んだが、家が貧しく書を持たず、常に人から借りては一度読んだだけでほとんど記憶した。
- 外祖父の丘佗と高祖に旧誼があったため、高祖はその才学を聞いて西省に召し歴史編纂を手伝わせた。初め奉朝請となり、壽光省に入って司文侍郎、まもなく中書通事舎人を兼ねた。勅により建陵寺の刹下銘を作らせ、また高祖の文集の序も作らせたところ、いずれも豊麗と評された。以後、専ら朝廷の公文書の筆をとった。
- 孝恭は文章を書くのが速く、勅命を受けるとその場で作り上げ、思案する様子もなかった。奏上のたびに高祖は必ず賞賛し、しばしば金帛を賜った。
- 若い頃、蕭寺の雲法師に師事して経論を学び仏理に通じ、この頃には蔬食持戒を篤く信奉していたが、才を頼んで人を見下す性向があり、当時これを軽んじる者もいた。
- 太清2年(548年)、侯景の乱が迫ると、孝恭は兵を募って蕭正徳に従い南岸に駐屯したが、賊が至ると正徳は軍を率いて賊に投じた。孝恭は台城に戻ろうとしたが門はすでに閉ざされており、東府に逃げ込んだが、まもなく城が陥落し殺された。文集は世に行われた。