梁書卷五十 列傳第四十四 陸雲公

陸雲公(子龍)

  • 陸雲公は字を子龍といい、呉郡の人。祖父の陸閑は州別駕、父の陸完は寧遠長史であった。雲公は5歳で『論語』『毛詩』を暗誦し、9歳で『漢書』を読みほとんど記憶した。従祖の陸倕と沛国の劉顯が十の問いを課したところ、雲公はすべて誤りなく答え、顯はその聡明さに驚嘆した。
  • 成長すると才思に富み、州から秀才に挙げられ、宣恵武陵王・平西湘東王行参軍に累遷した。以前に作った『太伯廟碑』を、呉興太守の張纉が郡を退く途中で読んで「今の蔡伯喈(蔡邕)だ」と嘆じ、都に着くとこれを高祖に推薦したため、兼尚書儀曹郎に召され、まもなく実授された。壽光省に入って侍し、本官のまま著作郎の事を掌った。まもなく著作郎に任じられ、中書黄門郎に累遷して著作の任はもとのままとした。
  • 雲公は囲碁を善くした。ある夜の御前の宴で、武冠が燭火に触れたとき、高祖は「燭がお前の貂(高官の証)を焼いたな」と笑って言った。これは高祖が雲公を侍中に用いようとしていたことを示す戯れであった。
  • 当時新造された天淵池の舟「鯿魚舟」は幅広く短い形をしており、高祖は暇な日にこの舟に乗り、朝臣の中でも太常劉之遴・国子祭酒到溉・右衛朱异だけを招いた。雲公は年若い身分ながらこれに与ることができ、その寵遇のほどが窺える。
  • 太清元年(547年)37歳で没した。高祖はこれを深く悼み、手詔で「給事黄門侍郎掌著作の陸雲公は風格に優れた後進の秀才であったが、突然の死は痛惜に堪えない」と述べ、哀悼の儀を挙げさせ銭5万・布40匹を賜った。
  • 当時湘州にあった張纉は、雲公の叔父の陸襄と兄の陸晏子に書を送り、雲公の幼少からの聡明さ、師を持たずして備わった資質、若くして学問で人に抜きん出たこと、年齢を超えた親交と日々ともにした文事、瀟湘への赴任に際しての別れの情景を偲び、再会を願っていたのに叶わぬ悲しみを綴った。
  • 雲公の従兄の陸才子も文名があり、中書郎・宣成王友・太子中庶子・廷尉卿を歴任し、雲公に先立って没した。才子・雲公の文集はともに世に行われた。