処士篇の趣旨
- 『易』にいう「君子は世を遯れて悶えることなし、独り立ちて懼れず」と。孔子も長沮・桀溺のような隠者を語った。
- 古の隠者には、禅譲を聞くことすら恥として帝位すら汚辱とみなし死を選んだ者(生を軽んじ道を重んじる最上の隠者)、仕官の身にありながら心を持して志を保ち世俗に交わって恥じない者(大隠は市朝に隠るという次の隠者)、裸で狂を装い盲や唖を演じて礼楽を捨て孝慈すら顧みない者(身を全うし害を遠ざける、さらに次の隠者)があった。いずれも語らずとも道を失わぬ点で一致し、乱世に身を投じて利を争う者とは同列に論じられない。
- 孟子は「人は爵禄を得ればこれを生のごとく喜び、失えばこれを死のごとく悲しむ」と言い、『淮南子』は「人はみな止水に己を映すが流れる水には映さない」と言う。清濁を分かち貪り競う心を抑えるのはまさに隠者の道である。
- 古来の帝王はみなこの道を尊んできた。堯も巣父・許由を屈服させず、周の武王も伯夷・叔斉を降せなかった。漢の高祖は驕慢でありながら商山の四皓(黄綺)に長揖し、光武帝は法を厳しく用いながらも厳光には意を曲げた。梁の盛世もこの風を継ぎ、道徳・学芸の模範となる者を選んで本篇「処士」を立てる。
何點(子晳)
- 何點は字を子晳といい、廬江灊の人。祖父の何尚之は宋の司空、父の何鑠は宜都太守であったが、鑠は持病の風疾により正気を失い妻を害して法により死んだ。點は11歳でこの禍にほとんど命を落としかけるほど悲嘆した。
- 成長して家の禍を思い婚姻・仕官を絶とうとしたが、祖父の尚之に強いられ琅邪の王氏を娶った。婚礼を終えると涙ながらに本意(不仕・不婚の志)を訴えて許され、結局は仕えなかった。
- 容貌は端正で博く群書に通じ談論を善くした。家柄は名門で親戚の多くが高位にあったが、點は城府に入ることを好まず、簪や帯を用いず柴車に乗り草鞋を履いて心のままに世を遊び、酔えば帰る奔放な生活を送り、士大夫の多くが慕って従った。世人は彼を「通隠」と呼んだ。
- 兄の何求も呉郡の虎丘山に隠棲し、求が没すると點は喪に服して菜食を続け酒を絶ち、3年間帯を半分に縮めるほど痩せた。
- 宋の泰始末、太子洗馬に召され、齊初にも中書郎・太子中庶子にたびたび召されたが応じなかった。陳郡の謝瀹、呉国の張融、会稽の孔稚珪と莫逆の交わりを結んだ。従弟の何遁が東籬門の庭園に住んでいたのを、孔稚珪が改めて室を築いてやり、園内にあった卞忠貞の墓の側に花を植えて酒を献じては弔った。
- 齊の宰相・褚淵と王儉について、點は「私が齊書の賛を作るなら『淵はすでに世族、儉もまた国華なれど、舅(外戚)の恩がなければ国家の憂いをどうして救えようか』と書く」と語り、王儉はこれを聞いて訪ねようとしたが果たさず、豫章王蕭嶷が車を送っても點は裏門から逃げた。竟陵王子良が法輪寺にいた點を自ら訪ねた際には、角巾のまま座に招じ、子良は大いに喜び嵆叔夜(嵆康)の酒杯と徐景山の酒鐺を贈った。
- かつて長らく渇き腹下しの病を患い、呉中の石仏寺で講義中に道人が丸薬を与える夢を見て服したところ全快したといい、人々はその徳の致すところとした。性は物惜しみせず施しを好み、盗みに遭ってもかえって施し与えたという逸話もある――朱雀門街で車の衣を盗まれた際、捕らえた者を許して衣を与え、有司に告げるよう命じて盗人を急ぎ去らせたという。
- 人物鑑識に優れ、吳興の丘遲を幼くして見出し、済陽の江淹を寒門から見出した眼力はいずれも的中した。點は老いて魯国の孔嗣の娘を娶ったが、隠者であった妻とは別室に住み顔を合わせなかった。
- 呉国の張融は若い頃、免官された際に高尚な詩を詠み、點が答詩を戯れに贈ったが、融はこれを長く根に持ち、點の再婚に際して皮肉の詩を贈って應酬しあった。
- 高祖は點と旧交があり、即位すると手詔で昔ともに竹林や清池を訪ねた日々を懐かしみ、山中で14年会えずにいたことを惜しみ、厳光や周党の故事に倣って臣とせず礼遇したいと述べ、鹿皮の頭巾を賜った。點は巾褐のまま華林園に召され、高祖は喜んで詩を賦し酒を賜り旧交のごとく遇した。
- 詔により侍中に任じようとしたが點は病と称して赴かず、再度の詔でも厳光や厳尤の故事を引いて招いたが應じなかった。ただし資給を受けることは認められ、太官から日々の費用が支給された。
- 天監3年(504年)68歳で没した。詔により第一品の棺材一具、賻銭2万、布50疋を賜り、喪事は内監が世話をした。弟の何𦙍への勅では、亡き兄が世俗に染まらず高踏の生涯を送ったことを讃え、深い哀悼の意を表した。點には子がなく、一族の何耿の子・何遅を嗣子とした。
何𦙍――出仕と辞職
- 何𦙍は字を子季といい、點の弟である。8歳で喪に服し成人のごとく哀毀した。成長して沛国の劉瓛に師事し『易』『礼記』『毛詩』を学び、鍾山定林寺にも通って仏典を聴いたが、その才知は当時ほとんど知られておらず、劉瓛と汝南の周顒だけがその非凡さを認めていた。
- 齊に秘書郎として起家し、太子舎人に遷り、建安太守に出て恩信の政を行い、民に欺かれることがなかった。伏臘(祭日)には囚人を家に帰し期日通りに戻らせたという。尚書三公郎に召されたが受けず、司徒主簿に遷り、『易』に注し、『礼記』の解釈を巻の裏に書き記して「隠義」と呼んだ。
- 中書郎・員外散騎常侍・太尉従事中郎・司徒右長史・給事黄門侍郎・太子中庶子領国子博士・丹陽邑中正を歴任。尚書令の王儉が新礼の編纂を命じられたが未完のまま没し、張緒に継がせたがまた没し、竟陵王子良に委ねられたところ、子良はこれを𦙍に譲り、学士20人を置いて編纂を補佐させた。
何𦙍――隠棲と厚遇
- 永明10年(492年)侍中兼歩兵校尉に遷り国子祭酒に転じた。鬱林王が即位すると𦙍は外戚として厚遇され、左民尚書領驍騎中書令領臨海巴陵王師に累遷したが、貴顕にありながら常に足るを知る心を保ち、建武初め(494年頃)すでに郊外に「小山」と名付けた家を築いて学徒と過ごしていた。
- 園宅を売って東山に入ろうとしたところ、謝朏が呉興郡を辞して帰らぬと聞き、報告を待たず辞表を出して立ち去ったため、明帝は激怒し御史中丞の袁昻に𦙍を捕らえさせようとしたが、まもなく詔で許された。𦙍は会稽の山の霊異を慕い若邪山の雲門寺に住んだ。
- 兄の何求・何點もかつて隠棲しており、求が先に没し、𦙍もこの時隠れたため、世に點を「大山」、𦙍を「小山」あるいは「東山」と称した。永元中(499-501年)太常・太子詹事に召されたがいずれも赴かなかった。
- 高祖の霸府が建てられると軍謀祭酒に招かれ、書簡では山川の楽しみを共にしたいとの思いと、遠く別れた哀愁が綴られたが、𦙍は応じなかった。
- 高祖が即位すると特進右光禄大夫に任じる詔を出し、手勅では自ら乏しい治世を憂い、先王の遺した規範がなお書物に残っているものの世が澆薄となり争いが絶えないことを嘆き、儒学の高士による導きを求めて出仕を懇請した。𦙍は病を理由に応じなかったため、高祖は領軍司馬の王果を派遣して意を伝えさせた。
- 王果が至ると𦙍は単衣・鹿巾のまま牀を下りて詔書を跪いて受け、席に着いて拝読し、果に対し、かつて齊の朝廷で提言しようとしていた三つの事――郊丘の祭祀を正すこと、九鼎を改鋳すること、双闕を建てること――を語り、闕の名は「象魏」に由来し法を掲げて示す意であること、鼎は国家の重器であること、南郊と圜丘の祭祀は古来別のものであるのに合祀するのは誤りであることなどを説き、果に朝廷でこれを進言するよう勧めた。果は謙遜して応じず、𦙍が「では代わりに詔書を持ち帰り、私と共に過ごさぬか」と問うと、果は前例がないと驚き、𦙍は「事は誰かが最初に始めるものだ」と答えた。
- 果はさらに出仕を勧めたが、𦙍は自らの高齢と食の細さを理由に固辞した。果が帰って奏上すると、白衣のまま尚書の禄を賜る勅が下ったが𦙍はこれも固辞し、山陰の庫銭を毎月5万賜る勅も受けなかった。
- 高祖は改めて勅を下し、学問の衰退を憂い、𦙍の門下で経学・行いに優れた者の名を尋ね、後進を指導させたいと述べた。𦙍は何子朗・孔壽ら6人を東山で学ばせ、太守の衡陽王元簡もしばしば訪れて終日論談した。
- 若邪の地が手狭になったため秦望山に移り、林に沿って学舎を建て、岩を利用して壁とし、小さな別室を寝所として自ら開閉し僮僕も立ち入らせなかった。山側に田2頃を営み講義の合間に生徒と耕作した。
- 移住の際、玄冠をつけた二人の異形の者が現れ「この場所が吉である」と告げて姿を消したという不思議があり、まもなく山に洪水が起こり周囲の木石が倒れる中、𦙍の住居だけは無事であった。元簡は記室参軍の鍾嶸に「瑞室頌」を作らせ石に刻んで顕彰した。元簡が郡を去る際、𦙍と別れを惜しみ、埭(堤)まで見送られた「都賜埭」の名がこの時に由来する。
- 何氏は代々(晋の何充以来)呉の西山に葬られ、𦙍の一族は長命でなかったが祖父の尚之だけは72歳に達した。𦙍はその歳に達すると呉に移り「別山詩」を作り、その情は悲愴であった。呉では虎丘の西寺で経論を講じ、東方の守宰たちも訪れた。𦙍は殺生を禁じ、鹿が逃げ込んで動じずにいたり、鶴に似た紅色の鳥が講堂に馴れ集まったという逸話もある。
- 中大通3年(531年)86歳で没した。生前、𦙍が病を得た際、妻の江氏は神人から「夫の寿命は尽きたが、徳により延命が許される、あなたが代わりに」と告げる夢を見て自身が病を得て没し、𦙍の病は癒えた。死の直前には神女と多くの供の女性が拝礼する夢を見て、自ら葬具を用意させたという。
- 𦙍は『百法論』『十二門論』の注各1巻、『周易』注10巻、『毛詩総集』6巻、『毛詩隠義』10巻、『礼記隠義』20巻、『礼答問』55巻を著した。子の何撰も仕えず、廬陵王が主簿に招いたが応じなかった。