梁書卷五十 列傳第四十四 謝徵

謝徵(玄度)

  • 謝徵は字を玄度といい、陳郡陽夏の人。高祖の謝景仁は宋の尚書左僕射、祖父の謝稚は宋の司徒主簿、父の謝璟は従叔の謝朓とともに若くして名を知られた。齊の竟陵王蕭子良が西邸を開き文学の士を招いた際、璟もこれに与った。隆昌中(494年)、明帝の驃騎諮議参軍として記室を領し、中書郎・晉安内史に遷った。
  • 高祖が京邑(建康)を平定すると霸府諮議となり、梁台が建てられると黄門郎となった。天監初め司農卿・秘書監・左民尚書・明威将軍・東陽太守を歴任。高祖は璟を侍中に任じようとしたが、老齢を理由に固辞し、金紫(栄誉的な官位)を求めたが叙任前に病没した。
  • 徴は幼くして聡慧で、璟は驚き「この子は並の器ではない、ただ寿命だけが心配だ。天がその齢を与えれば私に恨みはない」と親族に語ったという。
  • 成長すると容姿に優れ学を好み文に長じた。初め安西安成王の法曹となり、尚書金部三公二曹郎・豫章王記室兼中書舎人に遷り、平北諮議参軍兼鴻臚卿舎人に除せられた。徴は河東の裴子野、沛国の劉顯と同僚として親しく交わり、子野が寒夜の宿直の詩を贈ると徴は『感友賦』を作って応えた。
  • 魏の中山王元略が北へ帰る際、高祖が武徳殿で餞別の宴を開き、三十韻の詩を三刻の期限で命じた。徴は二刻で作り上げ、その辞は美しく高祖は二度も読み返した。臨汝侯蕭淵猷のために作った『放生文』も世に賞賛された。
  • 中大通元年(529年)父の喪に服して辞職し、続いて母の喪にも服した。詔により貞威将軍として起用され、喪明けて本任に復し、尚書左丞に任じられた。
  • 中大通3年(531年)昭明太子が薨じ、高祖が晉安王蕭綱を皇太子に立てるに際し、召して議に与らせたのは尚書左僕射何敬容・宣恵将軍孔休源と徴の三人のみであり、徴は年若く官位も軽かったがすでに重く用いられていた。
  • 中大通4年(532年)中書郎・鴻臚卿舎人に累遷し、中大通6年(534年)北中郎豫章王長史・南蘭陵太守として都を出た。大同2年(536年)在官のまま37歳で没した。友人の琅邪王籍がその文を集めて20巻とした。