梁書卷五十 列傳第四十四 劉杳

出自と博識

  • 劉杳は字を士深といい、平原平原の人。祖父の劉乗民は宋の冀州刺史、父の劉懐慰は齊の東陽太守で良績があり『齊書』良政伝に記される。
  • 杳は幼い頃、徴士の明僧紹が「この子は千里の駒だ」と評した。13歳で父を失い、哀しみは道行く人を感動させるほどであった。
  • 天監初め太学博士、宣恵豫章王行参軍。博く群書に通じ、沈約・任昉が物事を失念するとしばしば杳に尋ねた。
  • 沈約の座で宗廟の犠樽(祭器)の話になった際、約が鄭玄の説(鳳凰の尾を象った文様があるが今その器は失われた)を引くと、杳は魏代に魯郡で出土した齊大夫子尾の娘の副葬品に牛の形の犠樽があったこと、また晋の永嘉年間に青州の賊将曹嶷が齊景公の墓を発いた際にも牛形の樽が二つ出土したことを挙げて反論し、約もこれを是とした。
  • また約が何承天『纂文』の記す張仲師・長頸王の話の出典を問うと、杳は張仲師の話は『論衡』に、長頸王(毗騫王)の話は朱建安の『扶南以南記』に出ると答え、約が両書を確かめると杳の言葉どおりであった。
  • 約の郊居宅の新閣が完成した際、杳は二首の賛と文章を献じ、約はこれを壁に書かせて賛辞の書を返した――隠棲を愛しつつ官事に追われる身の上、杳の文が閣に十倍の美を添えたことへの謝意を綴った内容であった。
  • 任昉の座で、ある人が□(底本欠字)という酒を贈り、その甕に「榐」という字が書かれており、任昉がこの字の有無を杳に問うと、杳は葛洪『字苑』にあり木偏で「吝」の意と答えた。また任昉が「酒に千日酔うというのは誇張だろう」と言うと、杳は桂陽程郷に「千里酒」があり一里進むほどの間で酔うことに由来すると答え、任昉は自らの物忘れを恥じた。杳はこの話が楊元鳳(魏代の人)の著述に出ることまで示し、確かめると符合した。
  • 王僧孺が譜(系図)の編纂を命じられ杳に血脈の由来を尋ねると、杳は桓譚『新論』を引いて太史の三代世表が横に斜め上へと連ねる形式で周の譜に倣ったものだと述べ、世表の慣行が周代に始まると推した。僧儒はこれを未聞の知見と感嘆した。
  • 周捨が尚書官の帯びる紫荷槖の由来を問うと、杳は『漢書』張安世伝の「橐を持ち筆を簪す」の語と韋昭・張晏の注(橐は嚢であり近臣が筆記具を携えて勅命を待つの意)を引いて答えた。范岫が『字書音訓』を編む際にも杳に尋ねている。その博識強記はこの類であった。

仕途と晩年

  • 周捨に従い国史の編纂を助け、臨津令に出て善政を敷き、任期満了時には県民300余人が留任を願い出て許された。杳は病により辞して帰り、雲麾晉安王府参軍に除せられた。
  • 詹事の徐勉が杳と顧協ら5人を華林省の『徧略』編纂に選び、書が成ると本官のまま廷尉正を兼ねた。足の病により辞した際に『林庭賦』を著し、王僧孺はこれを「沈約の郊居以来これほどの作はない」と嘆じた。
  • 普通元年(520年)建康正に復し、尚書駕部郎に遷り、数か月で儀曹郎に転じた。僕射徐勉は台閣の文書をすべて杳に委ねた。餘姚令に出て清廉であり贈り物を一切受けず、湘東王は布告してこれを称えた。
  • 宣恵湘東王記室参軍に復し、母の喪に服して後、再び王府記室兼東宮通事舎人となった。大通元年(527年)歩兵校尉に遷り舎人はもとのまま兼ねた。昭明太子は「酒はお前の好みではないのに酒厨の職にありながら恥じずに務めている」と杳に語りかけたという。
  • まもなく勅により裴子野に代わって著作郎の事を掌った。昭明太子薨去後、新宮建立に伴い旧臣は通例として留任しないところ、勅により特に杳のみ留められ、太子徂帰賦に注をつけて博識と称された。
  • 僕射何敬容が杳を王府諮議に転じるよう上奏したが、高祖は「劉杳はまず中書を経るべし」として中書侍郎に任じた。後に平西湘東王諮議参軍兼舎人となり著作を知ることは元のままとし、尚書左丞に遷った。
  • 大同2年(536年)在官のまま50歳で没した。杳は清廉倹約な生活を送り、嗜好もなく、人の短長を語らなかった。仏典に触れてからは慈悲の行いを常とし、天監17年(518年)母の喪に服して以来、生涯肉食を断ち精進潔斎を続けた。臨終に際しては法服を着せ露車で運んで旧墓に葬り、棺が収まるだけの土地でよく、霊筵や祭祀の設営を無用とするよう遺命し、子はこれに従った。
  • 少壮から著述を重ね、『要雅』5巻、『楚辞草木疏』1巻、『高士伝』2巻、『東宮新旧記』30巻、『古今四部書目』5巻を著し、いずれも世に行われた。