梁書卷五十 列傳第四十四 謝幾卿

出自と少年時代

  • 謝幾卿は陳郡陽夏の人。曽祖の謝霊運は宋の臨川内史、父の謝超宗は齊の黄門郎で、いずれも前代に重名があった。
  • 幾卿は幼くして弁が立ち、当世に神童と呼ばれた。
  • 後に父の超宗が事件に連座して越州へ流された際、新亭渚で見送った幾卿は別れを堪えられず江に身を投げようとし、周囲の者に助けられて救われた。父の喪に服した際も礼を超えて哀毀した。
  • 国子生に召され、齊の文恵太子が自ら試験に臨み、祭酒の王儉に経義で問わせたところ、幾卿は淀みなく答え、文恵太子は大いに賞賛した。王儉は「謝超宗は死んでいない(その才が幾卿に受け継がれている)」と評した。

出仕と奔放な性格

  • 成長してからも博学で文才があり、豫章王国常侍を皮切りに車騎法曹行参軍・相国祭酒・寧国令・尚書殿中郎・太尉晉安王主簿を歴任した。
  • 天監初め、征虜鄱陽王記室・尚書三公侍郎を経て治書侍御史となったが、この職は宋齊以来やや軽んじられ「南奔(左遷同然)」と俗に呼ばれていた。
  • 幾卿は志を失い、しばしば病と称して台の仕事をほとんど顧みなくなった。散騎侍郎・中書郎・国子博士・尚書左丞と転じ、故実に通じていたため僕射の徐勉はしばしば彼に相談した。
  • しかし性格は自由奔放で、朝廷の規範に拘らなかった。かつて楽遊苑の宴で酔いが足りぬまま帰る途中、路傍の酒屋に車を停め、幔幕をかかげて御者三人と差し向かいで飲み、見物人が壁のように群がったが本人は平然としていた。
  • 後に官署の夜に犢鼻褌(褌一枚)姿で門生と楼閣の廊で酒を酌み交わし高歌したことを弾劾され、免官となった。
  • 間もなく国子博士に起用され、河東太守に転じたが任期途中で病により解任、太子率更令、鎮衛南平王長史を歴任した。

北伐の敗戦と晩年

  • 普通6年(525年)、詔により領軍将軍・西昌侯蕭淵藻に諸軍を率いさせ北伐させた際、幾卿は従軍を願い出て軍師長史・威戎将軍に抜擢されたが、軍が渦陽に至って敗れ、幾卿もその責を負って免官となった。
  • 白楊石井の自邸に隠棲すると、朝中の親しい者が酒を携えて訪ねてきた。当時、左丞の庾仲容も免官されて帰郷しており、二人は意気投合し、開けた車に乗って郊野を巡り、酔えば鐸を鳴らし挽歌を歌うなど世評を意に介さなかった。
  • 荆州鎮にあった湘東王が書を送って慰めると、幾卿は返書で、南浦を離れて以来東郊に隠れ日々昔日の恩顧を偲んでいること、かつて湘東王のもとで宴に侍り清らかな詩文を交わした日々への思慕、無常を悟りつつも旧恩を忘れがたい心情を綴り、鬼谷子・接輿・屠肆・関市に隠れた古の隠者たちを慕う言葉を連ねた。
  • 幾卿は奔放であったが、家門には篤く睦まじかった。兄の謝才卿が早世すると、その遺児の謝藻を幼くして引き取り養育し、藻が成長して清官に至るまで教え導いた功績は世に称えられた。
  • 幾卿は再び用いられることなく病没した。