梁書卷四十一 列𫝊第三十五 劉潛

劉潛、字は孝儀。秘書監劉孝綽の弟で、「三筆」と称された文章の名手。地方官・尚書などを歴任し、太清年間、侯景の乱で豫章郡を失った。大宝元年(550年)病没した。享年六十七。弟の孝勝・孝威・孝先もそれぞれ文才で知られた。

年表(9件)

経歴

  • 劉潛、字は孝儀。秘書監劉孝綽の弟。幼くして父を失い、兄弟互いに励まし合って学問に努め、ともに文章に優れた。孝綽はかつて「三筆六詩(文章は三男の孝儀、詩は六男の孝威が優れる)」と評した。
  • 天監五年(506年)秀才に挙げられ、鎮右始興王法曹行参軍から起家し、益州の府に随い記室を兼ね、王が中撫軍に入ると主簿に転じ、尚書殿中郎に遷った。勅により雍州平等金像の碑文を撰し、その文は壮麗であった。晋安王綱が襄陽に出鎮すると安北功曹史に引き入れられたが、母の喪に去職した。王が皇太子に立てられると孝儀は喪明け後、洗馬に補せられ、中舎人に遷った。
  • 戎昭将軍・陽羨令として出て称えられる治績を挙げ、建康令に抜擢された。大同三年(537年)中書郎に遷ったが公事により安西諮議参軍・兼散騎常侍に左遷され、魏に使いした帰国後ふたたび中書郎を除せられた。まもなく司徒右長史を権兼し、また寧遠長史を兼ねて彭城・琅邪二郡の事を行い、尚書左丞・兼御史中丞に累遷し、職にあって弾劾を憚らず当時これを称えられた。
  • 大同十年(544年)伏波将軍・臨海太守として出た。当時、法令が緩んで百姓の多くが禁令に従わなかったが、孝儀は着任すると条制を示し精励して境内を治め、風俗は大いに改まった。
  • 中大同元年(546年)都官尚書に入り、太清元年(547年)明威将軍・豫章内史として出た。太清二年(548年)侯景が都を侵すと、孝儀は子の勵に郡兵三千を率いさせ、先の衡州刺史韋粲に従い援軍として送った。太清三年(549年)宮城が陥落し、孝儀は前歴陽太守荘鉄に逼られ郡を失った。大宝元年(550年)病により卒した。享年六十七。
  • 孝儀は人柄が寛厚で内実がとりわけ篤かった。次兄の孝能が早世すると、孝儀は寡婦となった嫂に謹んで仕え、妻子とともに朝夕世話をし礼を失うことがなかった。世はこれを称えた。文集二十巻が世に行われた。

劉潛の弟・孝勝(附伝)

  • 第五弟の孝勝は邵陵王法曹・湘東王安西主簿記室・尚書左丞を歴任し、信義太守として出たが公事で免ぜられ、しばらくして尚書右丞・兼散騎常侍に還任した。
  • 魏に使いした帰国後、安西武陵王紀の長史・蜀郡太守となった。太清中、侯景が都を陥落させると武陵王紀は蜀で自立を称し、孝勝を尚書僕射とした。承聖中(552〜555年)紀に従って峡口に出陣したが兵が敗れて捕らえられ獄に下されたが、世祖はまもなく赦し、司徒右長史に起用した。

劉潛の弟・孝威(附伝)

  • 第六弟の孝威は初め安北晋安王法曹となり、まもなく主簿に転じたが母の喪に去職し、喪明け後に太子洗馬を除せられ、中舎人・庶子・率更令を歴任し、いずれも書記を掌った。大同九年(543年)東宮に白い雀が集まると、孝威はこれを頌して奉り、その辞は美しいと評された。
  • 太清中、中庶子・兼通事舎人に遷り、侯景の乱で都が包囲される中を脱出し、司州刺史柳仲礼に従い西へ向かい、安陸に至って病を得て卒した。

劉潛の弟・孝先(附伝)

  • 第七弟の孝先は武陵王法曹主簿となり、王が益州に遷ると府に随行し安西記室に転じた。承聖中、兄の孝勝とともに紀の軍に従って峡口に出陣し、兵が敗れて江陵に至った。世祖は黄門侍郎とし、のち侍中に遷った。
  • 兄弟はみな五言詩に優れ世に重んじられたが、その文集は乱により今は伝わっていない。