梁書卷四十一 列𫝊第三十五 劉孺
劉孺、字は孝稚。彭城の人で、宋の司空劉勔の孫。幼くして文才に優れ高祖に寵愛された官僚で、吏部尚書などを歴任した。大同七年(541年)母の喪により卒した。享年五十九、諡は孝子。弟の覧・遵もそれぞれ清廉・才学で知られた。
出自と経歴前半
- 劉孺、字は孝稚。彭城安上里の人。祖の勔は宋の司空・忠昭公、父の悛は斉の太常・敬子。孺は幼くして聡敏で七歳で文を作ることができ、十四歳で父の喪に遭い、痛哭のあまり痩せ細り、宗族はみなこれを異とした。
- 喪明け後、叔父の瑱が義興郡の官にあり孺を連れて赴任し、常に自らの座の傍らに置いて賓客に「この子は我が家の明珠だ」と語った。成長すると容姿風采に優れ、家人の前でも喜怒を見せることがなかった。
- 本州から迎えられて主簿となり、中軍法曹行参軍から起家し、鎮軍の沈約はその名を聞いて主簿に引き入れ、しばしば宴に招いて詩を作らせ、約から高く評価された。太子舎人・中軍臨川王主簿・太子洗馬・尚書殿中郎に累遷し、太末令として出て県で清廉な治績を挙げ、還任して晋安王友を除せられ、太子中舎人に転じた。
- 孺は若くして文章を好み性格も機敏で、かつて御前で「李賦」を作るよう詔を受けるとすぐに文を完成させ手直しを要しなかった。高祖は大いに賞賛した。のち寿光殿での宴に侍し、群臣に詩を賦するよう詔されたとき、孺は張率とともに酔っており作詩が遅れたので、高祖は孺の手板を取り上げ戯れに「張率は東南の美、劉孺は洛陽の才、筆を執ればすぐにできるはずなのに、なぜこれほど手間取るのか」と書きつけた。孺の親愛ぶりはこの通りであった。
経歴後半
- 中書郎に転じ中書通事舎人を兼ね、まもなく太子家令に遷り他はもとのままとし、宣恵晋安王長史・領丹陽尹丞として出て、太子中庶子・尚書吏部郎に遷り、軽車湘東王長史・領会稽郡丞として出たが公事で免ぜられ、まもなく王府記室・散騎侍郎・兼光禄卿に起用され、少府卿・司徒左長史・御史中丞に累遷し、職務に精励すると称された。
- 大通二年(528年)散騎常侍に遷り、三年(529年)左民尚書・領歩兵校尉に遷り、中大通四年(532年)仁威臨川王長史・江夏太守として出て貞威将軍を加えられ、五年(533年)寧遠将軍・司徒左長史となったが拝任前に都官尚書・領右軍将軍に改められた。
- 大同五年(539年)守吏部尚書となり、その年、明威将軍・晋陵太守として出て、郡において和やかな治政で吏民に称えられた。七年(541年)侍中・領右軍に入り、その年ふたたび吏部尚書となったが、母の喪に去職し、喪に服して一年足らずで悲しみのあまり卒した。享年五十九。諡は孝子。
- 孺は若くして従兄の苞・孝綽と名を並べたが、苞は早世し孝綽はしばしば免黜に遭い官位は高くならなかった。孺だけが顕貴に至った。文集二十巻があった。子の芻は著作郎となったが早世した。孺には弟の覧・遵がいた。
劉孺の弟・覧(附伝)
- 覧、字は孝智。十六歳で『老子』『易』に通じ、中書郎などを歴任し、生母の喪に廬(喪屋)に籠り、二年間にわたり塩や酪を口にせず、冬でも単衣を着るのみであった。家人は喪に耐えられぬことを案じ、夜こっそり牀の下に炭を置くと、覧は暖気で眠り込み、目覚めるとこれを知り号泣して血を吐いた。高祖はその篤い孝心を聞きしばしば見舞った。
- 喪が明けて尚書左丞を除せられ、性格は聡敏で、尚書令史七百人の姓名を一度で覚えるほどであった。官にあっては清廉かつ公正で私情を交えなかった。姉の夫である御史中丞褚湮の従兄で吏部郎の孝綽が在職中しばしば賄賂を受けていたが、覧は弾劾してこれを免官させた。孝綽はこれを恨み、人に「犬は道行く人に噛みつくが、覧は身内に噛みつく」と語ったという。
- 始興内史として出て、郡を治めるにあたりことさらに清節を励んだ。ふたたび左丞に還任し、在官のまま卒した。
劉孺の弟・遵(附伝)
- 遵、字は孝陵。若くして清雅で学識・品行に優れ、文才もあった。著作郎・太子舎人から起家し、晋安王宣恵・雲麾両府の記室に累遷し、深く礼遇された。南徐州治中に転じ、王がのち雍州に赴くと安北諮議参軍・帯邔県令に引き入れられた。
- 中大通二年(530年)王が皇太子に立てられると中庶子を除せられ、遵は藩国の頃から東宮に至るまで随行した旧恩により、とりわけ寵遇された。大同元年(535年)在官のまま卒した。皇太子は深くこれを悼み、遵の従兄で陽羨令の劉孝儀に令書を送った。
- その令書は次のように述べる。「賢しい従弟の中庶子が急逝したことは、どれほど痛惜であろうか。彼の孝友の情は深く、身を立てることは堅固で、内には玉のような潤いを、外には清らかな水のような表を持ち、その美誉と嘉声は士友の間に流れ、言行は常に一致していた。文史に通じ心を宝玉のように保ち、辞章は博く豊かで玄と黄(天地)の彩を成していた。すでに謙譲を旨としながらも、進んで世に出ることを控え、公卿に取り入ることもなかったため、新しく取り立てられることもなく、社の武運を担う者にも知られなかった。かつて阮放が野王の職に低迷し、遵もまた門下に留まること五年、同僚が昇進しても遵は淡々と受け止め、多少にこだわらぬ確乎とした志は稀有なものであった。西河に宝を観、東江に独り歩む、書物に載る話も彼を超えることはないであろう。私がかつて漢南で連なって書記を務め、朱方(京口)に至ってからも従容と座を共にし、美しい季節・清風・月夜には船を浮かべて鴎や鷺が舞うように過ごし、一日として追随せぬ日はなく、一時として会わぬときはなかった。酒宴が終わり耳が熱くなると志を語り詩を賦し、忠賢を論評し文史を称揚しあった。益者三友(正直・誠実・博識な友)とはまさに彼のことであった。弘道(遵の後任地か)に出ても善政をなし、民に慕われ、野に馴れた雉が多いのもその威徳の一端であろう。かつて春坊(東宮)にあって夜の会話を重ねたが、博望(東宮の官署)では賓客の応対に追われる務めもなく、司成(国子祭酒か)でも節文の煩瑣がなかった。頼るべき旧友としてしばしば並び立った仲であったのに、この子が突然世を去ったことはまことに痛惜の極みである。善人に味方するという天の道理がこのように裏切られてよいものか。そなたの哀悼の思いもいかばかりであろう。今は亡き身に、なぜ筆を投げ捨てるほど悲しむのか。私はかつて墓誌銘を作り彼の文集も編もうとしたが、私の才の乏しさで生前にその才能を発揮させてやれなかった。今さら銘や文集を作っても何の益があろう、ただこの痛惜の情がやまぬのみである」。