梁書卷三十九 列𫝊第三十三 羊侃
羊侃、字は祖忻。泰山梁甫の人で、漢の南陽太守羊続の子孫。一族は北魏に仕えていたが、南朝への帰還を志して兖州で挙兵し、大通三年(529年)梁に帰順した。武勇に優れ矟の妙技で高祖に激賞され、侯景の乱では建康の籠城戦を指揮して防戦に尽力したが、太清二年(548年)陣中で病没した。享年五十四。
年表(12件)
- 魏の正光年間(520〜)525年別将となる
- 大通三年529年都に至り使持節・散騎常侍・都督瑕丘征討諸軍事・安北将軍・徐州刺史を授かる
- 中大通四年532年使持節都督瑕丘諸軍事・安北将軍・兖州刺史として太尉元法僧の北伐に従うよう命じられる
- 五年533年高昌県侯に封じられる
- 六年534年雲麾将軍・晋安太守として出向し、閩越の反乱を鎮める
- 大同三年537年楽游苑の宴で矟の妙技を披露し高祖に激賞される
- 六年540年司徒左長史に遷る
- 八年542年都官尚書に遷る
- 九年543年使持節・壮武将軍・衡州刺史として出向する
- 太清元年547年侍中に召され、韓山の堰の築造を監督する
- 太清二年548年都官尚書として侯景の籠城戦を指揮し防戦にあたる
- 太清二年548年十二月、台内で病没する。享年五十四
出自と若年
- 羊侃、字は祖忻。泰山梁甫の人で、漢の南陽太守羊続の子孫。祖の規は宋の武帝が徐州に臨んだ際、祭酒従事・大中正に召されたが、薛安都が彭城を挙げて北魏に降った際に規もこれに従い魏に陥った。魏は規を衛将軍・営州刺史に任じた。父の祉は魏の侍中・金紫光禄大夫。
- 侃は幼くして偉丈夫で、身長七尺八寸。文史を好み、書記に広く通じ、とりわけ『左氏春秋』と孫呉の兵法を好んだ。弱冠のころ父に従い梁州で戦功を立てた。魏の正光年間(520〜525年)に別将となった。
- 当時秦州の羌族に莫遮念生という者があり、州に拠って反乱し帝を称し、弟の天生に岐州を攻め落とさせ雍州にまで侵攻した。侃は偏将として蕭宝寅に属してこれを討ち、身をひそめて塹を巡り天生を狙い撃つと、矢が当たるや天生は倒れ、その衆は潰走した。この功により使持節・征東大将軍・東道行台に遷り、太山太守を領し、鉅平侯に爵位を進めた。
北帰と兖州での攻防
- 侃の父はかねて南への帰還を志し、常に子らに「人はどうして異域に長く留まってよかろうか。お前たちは東朝(梁)に帰るがよい」と語っていた。侃はこのとき、黄河・済水の地を挙げて先志を果たそうと図った。
- 兖州刺史羊敦は侃の従兄であったが、これを密かに知って州に拠り侃を拒んだ。侃は精兵三万を率いてこれを襲ったが勝てず、十余城を築いて守った。朝廷からの褒賞は元法僧と同様であった。羊鴉仁・王弁が軍を率いて応援に赴き、李元履が食糧・武器を輸送した。
- 魏帝はこれを聞き、侃に驃騎大将軍・司徒・太山郡公を授け、長く兖州刺史とすると持ちかけたが、侃は魏の使者を斬って衆に示した。魏人は大いに驚き、僕射于暉に数十万の兵を率いさせ、高歓・尔朱陽都らも相次いで来援し、侃を十重余りに包囲して大いに殺傷した。
- 城柵の矢が尽き、南からの援軍も進まないため、夜に囲みを破って脱出し、戦いながら進み、一昼夜かけて魏の境を出て渣口に至った。残った兵は一万余、馬二千匹で、南へ入ろうとする夜、士卒はみな夜通し悲しみの歌を歌った。
- 侃は「お前たちは故郷を懐かしむであろう、道理として付き従わせることはできない。ここで進退を分かとう」と諭し、それぞれ別れを告げて去った。侃は大通三年(529年)に都に至り、詔により使持節・散騎常侍・都督瑕丘征討諸軍事・安北将軍・徐州刺史を授かり、兄の默、三人の弟の忱・給・元もみな刺史に拝された。
- まもなく都督北討諸軍事となり日城に出陣したが、陳慶之が軍規を失って停止したため、その年、持節・雲麾将軍・青冀二州刺史に改められた。中大通四年(532年)使持節都督瑕丘諸軍事・安北将軍・兖州刺史として、太尉元法僧の北伐に従うよう命じられた。
元法僧との確執と晋安太守時代
- 法僧はあらかじめ「侃とは旧知の間柄なので同行させてほしい」と奏していた。高祖が侃を召して方略を尋ねると、侃は進取の計を具に述べた。高祖が「そなたが太尉と同行を望んでいると聞いた」と言うと、侃は答えた。
- 「臣は身を引いて梁に帰参し、常に効命を思っておりましたが、実は法僧との同行は望んでおりません。北人は臣を『呉』と呼び、南人はすでに臣を『虜』と呼んでおります。今また法僧と同行すれば、同類が連れ立つように見え、私の本心に背くばかりか、匈奴に漢を軽んじさせることにもなりましょう」。
- 高祖は「朝廷は今そなたの出陣を必要としている」と述べ、大軍司馬に任じた。高祖は「軍司馬の職は久しく廃されていたが、そなたのために今回設ける」と語った。侃が官竹に進んだ折、元樹が譙城で軍を失ったため、軍は解かれて侃は侍中として都に戻った。
- 五年(533年)高昌県侯(邑千戸)に封じられ、六年(534年)雲麾将軍・晋安太守として出た。閩越の地は反乱を好む風があり、歴代の太守も鎮められずにいたが、侃が至ると首魁の陳称・呉満らを討ち斬り、郡内は粛清され、犯す者がなくなった。まもなく太子左衛率に召された。
侍臣としての名声
- 大同三年(537年)帝が楽游苑に行幸した際、侃も宴に列した。少府が新たに作った両刃の矟(長さ一丈四尺、周囲一尺三寸)を奏上すると、高祖は侃に馬を賜り試させた。侃は矟を執って馬に乗り、左右に打ち突きしてその妙技を尽くし、高祖は大いに賞賛した。
- また武宴詩三十韻を作って侃に示すと、侃はその場で応じて詩を奉った。高祖は「仁者は勇があると聞くが、今、勇者に仁があるのを見た。鄒魯の遺風、英賢は絶えぬというべきだ」と述べた。
- 六年(540年)司徒左長史に遷り、八年(542年)都官尚書に遷った。当時尚書令の何敬容が権を握っていたが、侃は同じ官署にいながら一度も出向くことはなかった。宦官の張僧允が侃に取り入ろうとしたとき、侃は「私の床は宦官が座る場所ではない」と言って一度も近づけず、世論はその廉直さを称えた。
- 九年(543年)使持節・壮武将軍・衡州刺史として出た。太清元年(547年)侍中に召され、折しも大規模な北伐が起こると、侃は特節・冠軍将軍として韓山の堰を築く工事を監督し、二十日で堰が完成した。
- 侃は元帥の貞陽侯に水勢を利用して彭城を攻めるよう勧めたが用いられず、まもなく魏の援軍が大挙して到来した。侃は敵が遠来である今こそ討つべきだと再三勧め、翌朝にも出撃を勧めたが、いずれも聞き入れられなかった。侃はやむなく自らの軍を率いて堰の上に出陣し、諸軍が敗れると陣を立て直して徐々に退いた。
侯景の乱における籠城戦
- 太清二年(548年)ふたたび都官尚書となった。侯景が反し歴陽を陥落させると、高祖は侃に討伐の策を尋ねた。侃は「景の謀反の兆しは久しく見えていたので、あるいは急襲もあり得ましょう。急ぎ采石を確保し、邵陵王に寿春を奪わせれば、景は進むこともできず退けば根拠地を失い、烏合の衆はおのずと瓦解しましょう」と答えたが、議論の者たちは景がまさか都に迫るまいと考え、その策は用いられなかった。
- 侃は千余騎を率いて国門を望む地に駐屯させられたが、景が新林に至ると、侃は呼び戻され宣城王を助けて城内の諸軍事を都督することになった。
- 折しも景が到来すると百姓が城内に競って入り、公私が混乱して秩序を失った。侃はこれを区分けし、宗室の者たちに間に立たせて統率させた。軍人が武庫に争って入り勝手に武器を取ろうとするのを役人が止められずにいたが、侃が数人を斬るとようやく止んだ。
- 賊が城に迫り人々が恐れおののくと、侃は「邵陵王・西昌侯がすでに近くまで到着した」という偽の矢文が届いたと称し、人心をやや落ち着かせた。賊が東掖門を攻め激しく火を放つと、侃は自ら防戦にあたり水で消火し、弓を引いて数人を射殺すると賊は退いた。
- 侍中・軍師将軍を加えられ、詔により金五千両・銀万両・絹万匹が戦士に賜与されたが、侃は自分の分を辞退し、私財を投じて部曲千余人に賞を与えた。
- 賊が先を尖らせた木驢で城を攻め矢や石でも防ぎきれなかったとき、侃は雉の尾の形をした松明に鉄の鏃を仕込み油を灌いで作り、木驢に投げつけて焼き払った。賊がまた東西両面に土山を築いて城を見下ろそうとしたときは、地道を掘って土台を崩し土山を立たせなかった。
- 賊がさらに高さ十丈余りの登城楼車を作って城内を射ようとしたとき、侃は「車が高くて塹が空虚では、来れば必ず倒れよう。横になって見物すればよい、備える必要はない」と述べ、実際に車が動くとその通りに倒れ、人々は感服した。
- 賊が攻めても落とせず長囲を築くと、朱异・張綰は出撃を主張したが、高祖が侃に問うと、侃は「不可です。賊は長期の攻撃で落とせぬため長囲を築き、城中の降伏者を誘い出そうとしているだけです。今出撃すれば、少人数では賊を破れず、多人数では一度の失利で将兵が踏み荒らされ、門が狭く橋が小さいために大きな損害を招きます。これは弱さを示すだけで、王の威を示すものではありません」と諫めたが用いられず、千余人を出撃させたところ、交戦する前に敗走し、橋を争って川に落ち死んだ者が大半を占めた。
- はじめ侃の長子鷟は景に捕らえられ、城下に引かれ侃に見せつけられた。侃は「私は一族を挙げて主君に報いようとしている、この一子を惜しむものか。早く殺してくれてもよい」と言い放った。数日後にまた鷟が引かれてくると、侃は「もう死んだと思っていたのに、まだ生きていたのか。私はこの身を国に捧げ、死をもって陣に臨むと誓った。お前ゆえに進退を曲げることは決してない」と述べ、弓を引いて射た。賊もその忠義に感じ入り、鷟に害を加えることはなかった。
- 景は儀同の傅士哲を遣わして侃に語らせた。「侯王(景)は遠路来て天子に伺いを立てようとしているのに、なぜ拒んで取り次がないのか。尚書は国家の大臣であるから朝廷に奏上すべきだ」。侃は答えた。「侯将軍は敗走の身でありながら国家に帰順し、方城の重鎮として重んじられていたのに、何を苦しんで急に兵を挙げたのか。今、烏合の兵を率いて王城の下まで迫らせ、賊馬に淮水を飲ませ、矢を帝室に集めるとは、臣下として許されることか。私は国の重恩を受け、朝廷の計略に従って大逆を掃うべきであって、根も葉もない説に惑わされて門を開いて盗賊を招き入れることはできぬ。侯王には早く身の処し方を考えるようお伝えせよ」。
- 士哲はさらに「侯王は君に節を尽くしているのに朝廷に理解されず、ただ至尊に直接申し上げて奸佞を除きたいだけだ。軍中にいるゆえに武装のまま参内しているのであって、どうして反逆と呼べようか」と述べたが、侃は「聖上が天下に臨まれて五十年、聡明で見通せぬことはない。どこに奸佞がいて朝廷にいるというのか。非を飾ろうとしても偽りの説にすぎない。侯王みずから白刃を城闕に向けておきながら、それが君に節を尽くすことだと言えるのか」と反駁した。士哲は返す言葉がなく、「北にいた頃からそなたの風格を慕っており、生前に語り合えなかったことを常に悔やんでいた。武装を解いて一度会いたい」と述べた。侃は兜を脱いでこれに応じ、士哲は長くその姿を眺めて去った。侃が北人にまで敬慕されていたことがうかがえる。
- のち大雨が降り城内の土山が崩れ、賊が乗じて城に迫ったが、苦戦の末に侃は多くの火を放って火の壁を築き、賊の道を断ち、その内側に城壁を築かせ、賊を進めさせなかった。十二月、病を得て台内で卒した。享年五十四。詔により東園秘器・布絹各五百匹・銭三百万が給され、侍中・護軍将軍・鼓吹一部が追贈された。
人物・逸話
- 侃は若い頃から勇猛で人並外れた膂力を持ち、用いる弓は十余石にも及んだ。かつて兖州の堯廟で壁を直登し五尋の高さまで達し、横に七つの足跡を残した。泗橋には長さ八尺・大きさ十囲の石人が数体あったが、侃はこれを持って打ち合わせ、ことごとく砕いた。
- 侃は性が豪奢で音律に長じ、みずから採蓮棹歌の二曲を作り、その趣は新鮮であった。侍女は列をなし、その暮らしは贅を極めた。彈筝の名手陸太喜は長さ七寸の鹿角の爪をつけ、舞い手張浄琬は腰回り一尺六寸で「掌中の舞」の名手とされた。孫荊玉は腰を反らして地に伏せ、席上の玉簪を口にくわえる技を見せた。歌い手王娥児には勅命で褒賞が下され、東宮でも歌い手屈偶之に褒賞があり、いずれも奇曲を極めて一時並ぶ者がなかった。
- はじめ衡州に赴くとき、二艘の船に三間続きの水上楼閣を設け、珠玉と錦繍で飾り、帷屏を張って女楽を並べ、潮に乗って纜を解き、波に臨んで酒宴を開いた。堤に沿って見物する者があふれた。
- 大同年間(535〜546年)、魏の使者陽斐は侃とかつて学友であったため、詔により侃が招いて宴を共にすることになり、賓客三百余人、器物はみな金玉の宝物、三部の女楽を奏し、夕には百余人の侍女がみな金の花燭を執った。侃自身は酒をあまり嗜まなかったが賓客との交わりを好み、一日中酌み交わし、相手に合わせて酔い覚めを共にした。
- 性は寛厚で度量があり、かつて南に還る途中、漣口で酒宴を開いた際、客の張孺才が船中で酔って火を出し、七十余艘を延焼させ、焼けた金帛は数えきれなかったが、侃はこれを聞いても意に介さず酒を続け、恐縮して逃げ隠れた孺才を慰めて呼び戻し、以前と変わらず遇した。
羊侃の子・鵾(附伝)
- 第三子の鵾は、字は子鵬。侃に随い台内にあったが、城が陥落すると平陽に逃れた。侯景は鵾を呼び戻し厚く遇した。景が敗れると、鵾は密かにこれを図り、東へ逃げる景に随行した。
- 景が松江で敗れ、三艘の船だけが残って海に出て蒙山へ向かおうとしたとき、景が疲れて昼寝をしている隙に、鵾は水夫に「この辺りに蒙山などない、私の指示に従え」と告げ、そのまま京口へ向かわせた。
- 胡豆洲に至って景が目覚めて驚き、岸の人に尋ねると「郭元建はまだ広陵にいる」との答えに景は喜び頼ろうとしたが、鵾は刀を抜いて水夫に京口へ向かうよう命じた。景が水に飛び込もうとすると、鵾は刀で斬りつけ、景は船中に逃げ込んで小刀で船底をえぐったが、鵾は矟で刺し殺した。
- 世祖は鵾を持節・通直散騎常侍・都督青冀二州諸軍事・明威将軍・青州刺史とし、昌国県公(邑二千戸)に封じ、銭五百万・米五千石・布絹各千匹を賜り、さらに東陽太守を領させた。陸納を討ち、散騎常侍を加えて峡中を平定し、西晋州刺史として郭元建を東関で破り、使持節・信武将軍・東晋州刺史に遷った。
- 承聖三年(554年)西魏が江陵を包囲したとき、鵾は援軍に赴いたが間に合わず、王僧愔に従い蕭㲄を嶺表に征伐した。太尉僧辯の敗死を聞いて引き返す途上、豫章で侯瑱に撃破され、討たれた。享年二十八。