梁書卷三十五 列𫝊第二十九 蕭子範

出自と経歴

  • 字景則。子恪の第六弟。斉の永明十年(492年)祁陽県侯に封ぜられ、太子洗馬を拝命。天監初、爵を降されて子となり、後軍記室参軍を経て再び太子洗馬、まもなく司徒主簿に遷る。生母の喪により去職。子範は孝行の性質で喪に服す様は評判となり、喪明け後再び司徒主簿、丹陽尹丞・太子中舎人を歴任、建安太守として出向、還って大司馬南平王の戸曹属従事中郎となった。
  • 南平王は文学の士を愛し、子範は格別の恩遇を受け「これぞ宗室の奇才」と称された。王は子範に千字文を作らせ、その文辞は美麗であり、王は記室の蔡薳に注釈をつけさせた。以後、府中の文筆はすべて子範が起草した。王の死後、子範は宣恵諮議参軍、護軍臨賀王正徳の長史に遷り、正徳が丹陽尹となると再び正徳の信威長史・領尹丞となった。10余年藩府から出られず、常にこれを慨嘆し、他の弟たちが皆顕職に登るのに不満を抱いた。
  • 到府(赴任先)への上表文で「藩鎮の長官の補佐として二度河南の職に就き、老いてなお昇進を得たが、盛衰の時を異にする自分を思うと、恩寵を受けながらも年鬢を恥じる」との趣旨を述べた。子範は弟の子顕・子雲と才名がほぼ並んだが、風采容姿が及ばなかったため出世に優劣が生じた。常に『漢書』の杜緩伝(六人の弟のうち五人が高官に至ったが、中弟の欽だけは官位振るわず最も名高かった話)を読んでは自らをこれになぞらえていた。
  • その後、宣恵武陵王司馬に召されたが就かず、中散大夫、光禄・廷尉卿に遷り、戎昭将軍・始興内史として出向、還って太中大夫、秘書監に遷る。太宗(簡文帝)即位後、光禄大夫・金章紫綬を加えられて召されたが、侯景の乱に逼られ拝命しなかった。その年、簡皇后の葬儀にあたり張纉とともに哀策文を制作、太宗はこれを読んで「今回の葬礼は儀礼が欠けたものだが、この文は決して旧例に劣らない」と称賛した。まもなく病により卒去、享年64。乱平定後、世祖(元帝)は金紫光禄大夫を追贈し、諡を文とした。前後の文集30巻。
  • 二子の滂・確はいずれも若くして文章で知られ、太宗が東宮にいた時、邵陵王としばしば蕭氏の文士を数え上げる中で滂・確も名が挙がった。滂は尚書殿中郎・中軍宣城王記室に至り、子範に先立って卒した。確は太清中に宣城王友・司徒右長史を歴任、乱平定後江陵に赴き、そのまま関中(西魏)に没した。