梁書卷三十五 列𫝊第二十九 蕭子恪

出自と生い立ち

  • 字景沖。蘭陵の人。斉の豫章文献王蕭嶷の第二子。永明中、王子として南康県侯に封ぜられた。12歳のとき、従兄の司徒竟陵王とともに「高松賦」を作り、衛軍の王倹がこれを見て才能を称えた。寧朔将軍・淮陵太守として初めて出仕。

斉末の危難と梁への出仕

  • 建武中、輔国将軍・呉郡太守に昇進。司馬王敬則が会稽で反乱を起こした際、子恪を奉ずるという名目が使われたため、明帝は子恪の兄弟親族70余人を西省に召し入れ、夜になって皆殺しにしようとした。ところが折しも子恪が任地を捨てて都に駆け戻り、その日のうちに到着したため、明帝は殺害を思いとどまった。
  • 子恪は太子中庶子となる。東昏侯即位後、秘書監・領右軍将軍に遷り、まもなく侍中。中興二年(502年)、輔国諮議参軍に遷る。天監元年(502年)、爵を降されて子となり、散騎常侍・領歩兵校尉に除せられたが病により拝命せず、光禄大夫、まもなく司徒左長史に転じた。

高祖(蕭衍)の諭し

  • 子恪は弟の子範らとともにある事で高祖に謝罪に赴いた際、高祖は文徳殿で引見し、次のような趣旨を懇々と語った。
  • 天下は公器であり、力だけで得ても天運がなければ項籍のように結局は敗亡する(班彪『王命論』の言を引く)。
  • 宋の孝武帝は兄弟の中で名声のある者を次々と鴆毒で殺したが、それでも天命のある者は害されず、天命のない者を殺しても意味がなかった(宋明帝は元来凡庸であったが天命により免れ即位した例を挙げる)。
  • 自らが建康を平定した当時32歳、朝廷内外からは蕭氏一族を一掃すべきとの進言があったが、それには従わなかった。
  • 江左以来、易姓のたびに前朝の一族を誅殺するのは和気を損ない、国運を短くする一因である(夏后の代の故事を「殷鑒遠からず」として引く)。
  • 斉と梁は易姓とはいえ、両者は元来同族に近く、兄弟同然の間柄である。斉建国の当初も苦楽を共にした仲であり、子恪兄弟は当時幼くその経緯を詳しくは知らないだろうが、自分は彼らを一家同然に思っている。
  • 自らの挙兵は、建武・永元の間に蕭氏一族が虐殺されたことへの復讐であり、王朝簒奪そのものが目的ではなかった。もし子恪兄弟の代で混乱を治めていたなら、自分が樊鄧から兵を挙げることもなかった。
  • 陳思王曹植の子曹志が魏武帝の孫でありながら西晋に忠誠を尽くした故事を引き、子恪もこれに準ずる立場にあると諭した。
  • さらに高祖は文献王時代からの宦官趙叔祖を呼び、「自分は昔からお前を知っている。北第(子恪兄弟の邸)の諸郎に会うことがあれば、私の真意――今は天下がまだ定まっていないので官職を与えていないだけで他意はなく、諸郎の身の安全のためでもある――を伝えよ」と命じ、叔祖はこれを子恪らに伝えた。

その後の官歴

  • 永嘉太守に出向、還って光禄卿・秘書監、明威将軍・零陵太守に出た。天監十七年(518年)、散騎常侍・輔国将軍として入朝。普通元年(520年)宗正卿。三年(522年)都官尚書。四年(523年)吏部に転じる。六年(525年)太子詹事。大通二年(528年)寧遠将軍・呉郡太守として出向。三年(529年)郡で卒去、享年52。侍中・中書令を追贈され、諡は恭。
  • 子恪の兄弟16人はみな梁に仕え、文学をよくした者は子恪・子質・子顕・子雲・子暉の5人であった。子恪はかつて親しい者に「文史のことは諸弟がすでに担っている。私は煩わされず、退いて公務に励むだけで十分だ」と語った。子恪も少時学問に親しみ文を能くしたが、自ら書いたものを顧みず、文集は伝わらなかった。子瑳(別の弟)も名を知られ、太清中に吏部郎に至ったが、乱を避けて東陽に逃れ、後に盗賊に殺された。