梁書卷三十 列傳第二十四 徐摛

出自と晋安王への出仕

  • 徐摛は字を士秀といい、東海郯県の人である。祖の憑道は宋の海陵太守、父の超之は天監初め員外散騎常侍に至った。摛は幼くして学を好み長じて経史を遍覧し、文を作るに新変を好み旧体に拘らなかった。太學博士として起家し左衞司馬に遷る。
  • 晉安王綱が石頭に出戍する際、高祖が周捨に「文学ともに優れ品行のある者を求め晉安王に付けたい」と言うと、捨は「私の外弟の徐摛は形質は小さく衣にも堪えぬほどだが、この選に適う」と答えた。高祖は「必ず仲宣(王粲)のような才があろう、容貌は問わぬ」と言い、摛を侍讀とした。
  • 晉安王が江州に鎮すと雲麾府記室參軍に補せられ、平西府中記室に転じ、王が京口に鎮を移すと安北中錄事參軍に随い郯令を帶びたが母の喪により去職。王が丹陽尹となると摛を秣陵令に起用した。普通4年、王が襄陽に出鎮する際は摛が固く随行を求め、晉安王諮議參軍に遷った。大通初め、王が北伐を総戎すると寧蠻府長史を兼ね戎政に参贊し、教命軍書は多く摛の手になった。

「宮体」と高祖の質問への応答

  • 王が皇太子に立てられると家令に転じ管記を兼帯した。摛の文体は他と異なり、東宮(春坊)が挙って学んだため「宮体」の名がここに起こったという。高祖はこれを聞き怒り摛を召して責めたが、応対が明敏で辞義に見るべきものがあったため怒りを解き、五経の大義から歴代史・百家雑説、末には釈教まで問うたところ摛は縦横に応答し、高祖は大いに感嘆しさらに親しく寵遇するようになった。
  • 領軍の朱异はこれを喜ばず「徐叟(老人)が両宮を出入りし次第に私を圧迫している、早く手を打つべきだ」と述べ、機を窺い高祖に「摛は年老いて泉石を愛し、一郡を得て自ら養いたいと望んでいる」と告げた。高祖は摛がそれを望んでいると思い「新安は山水が良く任昉らも経てきた地だ、そなたが私のために臥治せよ」と告げた。大通3年、新安太守に出た。郡では清静な政を行い、民に礼儀を教え農桑を勧め、一月で風俗が改まったという。任期を終え中庶子・戎昭將軍を加えられた。

礼制論議と侯景への抗弁

  • 臨城公が王氏を娶り夫人としたが、太宗妃の姪女であった。晋宋以来の慣例では初婚三日目に舅姑に見え、賓客が列して観るとされる。『春秋』の「丁丑に夫人姜氏至り、戊寅に公が大夫・宗婦に幣を用いて覿せしむ」を引き礼官は旧に依るべきと論じたが、太宗が摛に問うと「『儀禮』には質明に舅姑に見えるとあり、『雑記』にも婦は舅姑・兄弟姉妹に堂下に立って見えるとある。婦は外宗であり、堂下三朝の儀は舅が外客を延き姑が内賓を率いる盛礼のためのもの。近代の婦見舅姑は本来戚属の縁がない者を対象とする慣例であり、今回の夫人は妃の姪女で他の姻戚と異なるため見礼は略してよいだろう」と答え、太宗はその議に従った。
  • のち太子左衞率に除せられた。太清3年、侯景が台城を陥落させ、太宗が永福省にいた際、賊衆が乱入し上殿すると侍衞は皆逃げ散ったが、摛だけは毅然と立って動かず「侯公は礼を以て見えるべきだ、これは何たる凶威か」と徐ろに景を諭すと景は拝礼し、以後常に摛を憚った。太宗が即位すると左衞將軍を進授されたが固辞して受けなかった。太宗が幽閉された後は朝謁できず、そのため気疾を発して卒去した、時に78歳。長子の陵が最も名高い。