出自と若年
- 顧協は字を正禮といい、呉郡呉県の人である。晉の司空・顧和の七世孫。幼くして父を失い外家に養われた。外従祖の宋右光祿・張永がかつて内外の孫姪を連れて虎丘山に遊んだ際、幼い協に「何をして遊びたいか」と問うと「石を枕にし流れに漱ぎたい」と答え、張永は「顧氏はこの子から興るだろう」と嘆じたという。
- 長じて学を好み精力を以て称され、外家の張氏一族に賢達の人が多く、内従弟の張率にも特に重んじられた。揚州議曹從事史・兼太學博士として仕え秀才に挙げられ、尚書令沈約はその策文を見て「江左以来これほどの作はない」と嘆じた。安成王國左常侍・兼廷尉正に遷り、太尉臨川王がその名を聞き書記に召した。
西豐侯正徳への出仕と湘東王の推薦
- 西豐侯正徳(後に巴西梓潼郡太守)に侍読として仕えた。正徳の管する安都令に任じられたが赴任前に母の喪に遭い、服闋後に西陽郡丞・北中郎行參軍・兼廷尉正を経て廬陵郡丞に出るも赴任前に西豐侯正徳が呉郡に移った際、中軍參軍・領郡五官を経て輕車湘東王參軍事・兼記室に遷った。
- 普通6年、正徳が北討の詔を受けると府錄事參軍・書記として引かれた。軍が還ると詔により士を挙げることになり、湘東王が協を表薦した。その表に曰く「臣が聞くに、玉を貢ぐ士は潤山に帰し、珠を論ずる人は枯岸に出る、と。臣府の兼記室參軍・呉郡の顧協は郷閭に称えられ文武を兼ね、道素を服膺し雅量深遠、貧に安んじ静を守り公に奉じ直を抗す。今60歳にして室に妻子なく、私が人事を管掌する者に申し上げたいと思うが、協は貞退の志を固く守り渡さぬだろう。まさに東南の遺宝と称すべきである」と。孔愉が韓纘の才を表し庾亮が翟湯の徳を薦めた故事に倣うとし、召されて通直散騎侍郎・兼中書通事舎人に拝せられた。
清廉な晩年と最期
- のち歩兵校尉・守鴻臚卿・員外散騎常侍を歴任し、卿・舎人の任は元のままであった。大同8年、73歳で卒去。高祖は悼惜し手詔で「員外散騎常侍・鴻臚卿・兼中書通事舎人の顧協は廉潔に自ら居り白首に至るまで衰えず、久しく省闥にあって内外皆その善を称えていた。傍らに近親もなく最も哀れむべきである」と述べ、大殮の後は喪柩を故郷に送らせ冢槨の営みまで悉く資給させ、散騎常侍を贈り舉哀、諡を温とした。
- 協は若くして清介で志操があった。廷尉正であった頃、冬でも服が薄く、寺卿の蔡法度が「自分の襦を分け与えたいが、顧郎はきっと衣食に困っていると思うと辛い」と語ったが、結局遺ることはできなかった。舎人となってからも同官の者が皆家を潤す中、協は省中16年、器服・飲食を変えなかった。ある門生が始めて協に仕える際、その廉潔を知らず厚く餉物を送ろうとして僅か銭2千を送っただけであったが、協は怒り杖二十とし、これ以来贈答を絶った。
- 母の喪に服して以来終身布衣蔬食で通した。若い頃、舅の娘に娶ろうとしていたが未婚のまま母が亡くなり、喪明け後も再婚せず60余歳になってもその娘はなお他に嫁がなかったため、協は義としてこれを迎え入れたが、晩年の判合(結婚)で子孫はなかった。協は博学で文字・禽獣・草木に精しく、『異姓苑』5巻・『瑣語』10巻を撰し世に行われた。