梁書卷三十 列傳第二十四 裴子野

出自と若年

  • 裴子野は字を幾原といい、河東聞喜の人である。晉の太子左率・裴康の八世孫で、兄の黎、弟の楷・綽とともに「四裴」と称された名家であった。曾祖は宋の太中大夫・裴松之、祖は南中郎外兵參軍・裴駰、父は通直散騎常侍・裴昭明。
  • 子野は生まれつき早く父を失い(偏孤)、祖母に養われた。9歳で祖母が亡くなると哀慟して泣血し、家人はその孝心に驚いた。若くして学を好み文に長じ、斉の武陵王國左常侍・右軍江夏王參軍として仕官したが、父の喪に遭い職を去り喪に礼を尽くし、墓所で哭泣するたびに草が枯れ、白兎が馴れ寄ったという。
  • 天監初め、尚書僕射の范雲がその行いを嘉し表奏しようとしたが范雲が没し実現しなかった。楽安の任昉は当時盛名があり後進を薦挙していたが、子野は昉の従中表(縁戚)でありながら独り近づかず、昉も残念に思っていたという。

官歴と『宋略』の撰述

  • のち右軍安成王參軍、兼廷尉正に遷った。当時三官が獄牒に連署していたが、子野の不在中に同僚が署名して不当な裁許が出たため子野も連座して免職された。人々は訴えれば免れると勧めたが、子野は「柳季(柳下惠)の道には慙じるが、訴訟によって職を得ようとは思わない」と答え、終始恨む様子がなかった。
  • 天監2年、呉平侯蕭景が南兗州刺史となり冠軍錄事に引かれ、のち国子博士に遷る際、中書の范縝が子野の人物を評価し「河東の裴子野、40歳、幼くして至人の行いを禀け、喪に礼あり毀瘠幾滅(喪に痩せ細るほど)、家伝の素業を継ぎ儒史に習熟し、『宋略』20巻を著し首尾を彌綸し一代の史を成した」と上表して自らの職を譲ろうとしたが、資歴不足として通らなかった。
  • のち尚書比部郎・仁威記室參軍を経て諸暨令に出た。県では鞭罰を行わず理を以て訴えを裁いたため百姓は悦服し境内に訟えがなくなった。曾祖の裴松之は宋の元嘉年間に何承天の『宋史』続修の詔を受けたが未完のまま没しており、子野はこれを継ごうと志していた。斉の永明末に沈約の『宋書』が既に行われていたが、子野はさらに削って『宋略』20巻を撰し、その叙事評論の巧みさに沈約自身「私は及ばない」と嘆じた。蘭陵の蕭琛・北地の傅昭・汝南の周捨らも重んじた。

著作郎としての活躍

  • のち吏部尚書徐勉が高祖に推挙し著作郎となり国史・起居注を掌り、まもなく中書通事舎人を兼ね、通直正員郎・著作舎人に転じ、中書の詔誥を掌る勅を受けた。
  • 当時、西北徼外の白題国・滑国が岷山道より入貢したが、歴代交渉のない国で由来が不明であった。子野は「漢の潁陰侯が胡の白題将一人を斬った際の記述に『白題は胡名』とある。また漢の定遠侯(班超)が虜八滑を撃った記事があり、これがその後裔だろう」と考証し、人々はその博識に感服した。勅により『方国使図』を撰し、要服から海表まで20国の懐来の盛を記した。
  • 沛国の劉顕・南陽の劉之遴・陳郡の殷芸・陳留の阮孝緒・呉郡の顧協・京兆の韋棱ら博学の士と深く親交し、呉平侯蕭勵・范陽の張纘も論議のたびに子野の判断を仰いだ。
  • 普通7年、王師(梁軍)の北伐に際し魏に告諭する文の起草を命じられ、高祖はその文が重大であるとして尚書僕射徐勉・太子詹事周捨・鴻臚卿劉之遴・中書侍郞朱异を壽光殿に集めて審議させたが、皆その出来映えに感嘆した。高祖は子野を見て「その姿は弱々しいが文は甚だ壮んである」と評した。魏の相・元乂への書も夜のうちに起草を命じられ、朝まで待つよう言われたが五鼓(夜明け前)に催促され、子野は起きて筆を執り昧爽(明け方)に書き上げ、高祖は深く嘉した。以後、諸々の符檄は皆彼の草創に任された。
  • 子野の文章は典雅で速く、麗靡な言葉を好まず、その文体は古法に多く則り当時の文体と異なったため詆る者もいたが、末には皆感服した。速筆の理由を問われると「人は皆手で完成させるが、私は心で完成させている。見えるものと見えぬものの違いはあれど、刋改(推敲)は同じである」と答えた。
  • のち中書侍郎に遷り、大通元年鴻臚卿に転じ歩兵校尉を領した。子野は禁省に十余年あって静黙自守し請謁することがなく、俸禄は外家や貧しい親族に分け与え、自らは官地二畝を借りて茅屋を建て、妻子は常に飢寒に苦しんだが子弟の教誨を本義とし、子姪は畏敬して厳君に仕えるようであった。晩年は釈氏(仏教)を篤く信じ終身麦飯を食し蔬食を守った。

最期と著作

  • 中大通2年、官にて卒去、時に62歳。以前から自ら死期を庚戌の歳と定めていたが、まさにその年に病を得て、同官の劉之亨に「私はもう逝くだろう」と語り、遺命で倹約を求めた。高祖は悼惜して涙を流し、詔して「鴻臚卿・領歩兵校尉・知著作郎・兼中書通事舎人の裴子野は文史を能くし廉白に自ら居り、通事を長年務め奄かに喪逝した」と称え、散騎常侍を贈り賻銭5万・布50匹を給し即日挙哀、諡は貞子とした。
  • 子野は若い頃『注喪服』『続裴氏家傳』各2巻を編み、後漢の事を抄合し40余巻とし、勅により『衆僧傳』20巻・『百官九品』2巻・『附益諡法』1巻・『方国使図』1巻・文集20巻を撰した。いずれも世に行われた。また『齊梁春秋』を撰しようと構想したが未完のまま没した。子の謇は通直郎に至った。