出自と河東王讨伐
- 鮑泉は字を潤岳といい、東海の人である。父の機は湘東王諮議參軍。泉は史伝を博渉し文筆にも長じ、若くして元帝に仕え累遷して信州刺史に至った。太清3年、元帝の命により湘州の河東王譽を征討した。
- 泉は長沙に至り連城を築いて包囲したが、譽が衆を率いて攻めても柵を固く守って落ちなかった。譽の疲弊に乗じて出撃しこれを大破、その衆をことごとく虜にし城を包囲したが久しく抜けなかった。世祖は泉の罪を数え、平南將軍の王僧辯を遣わし泉に代えて都督とした。
- 僧辯が至ると泉は驚き「王竟陵の助けを得られれば賊を平らげるに難くない」と語ったが、僧辯は入るなり泉に背を向けて座り「鮑郎に罪あり、命により卿を鎖す、旧誼で見てくれるな」と告げ、泉を牀下に鎖した。泉は「稽緩の罪は甘んじて受けるが、後人がまた鮑泉の憒憒(愚かさ)を思い出すのが恐い」と述べ啓を作って淹遲の罪を謝した。世祖はまもなくその任を復し、僧辯らと共に舟師を率いさせ邵陵王を郢州で討たせた。
郢州での敗死
- 郢州が平定されると元帝は長子の方諸を刺史とし、泉を長史として州事を代行させたが、泉は軍政を顧みず方諸とともに酒に耽った。侯景は密かに部将の宋子仙・任約に精騎を率いて襲わせ、方諸と泉は不恤のまま雙陸(双六)に興じ「徐文盛の大軍が東にある、賊がどうしてここに来られようか」と信じなかった。しかし急を告げる者が続き城門を閉じると、賊は火を放って城を陥とし、方諸と泉は捕らえられ景の元へ送られた。景はその後、王僧辯を巴陵で攻めるも敗れ還ると泉を江夏で殺し、屍を黄鵠磯に沈めたという。
- かつて泉が南討都督であった頃、友人が泉が世祖に罪を得る夢を見たと語り、旬日を経ずして果たして囚われた。まもなくその友人はまた泉が朱衣を着て水上を歩き「案じるな、まもなく免れる」と告げる夢を見て泉に語ったところ、泉は密かにこれを記していたといい、間もなく再び任に復し夢のとおりとなったという。泉は儀礼に殊に明るく『新儀』40巻を撰し世に行われた。
史論
- 陳の吏部尚書・姚察曰く、阮孝緒は常々「仲尼が論じた四科は徳行を始めとし文学を終わりとする。行いのある者は多く質朴を尚び、文のある者は少なく規矩を蹈む。それゆえ衛石(衛玠・石崇)は餘論を伝えるのみで、屈原・賈誼には立徳の誉れがない」と語っていた。もし游夏(子游・子夏)の学を憲章し囘騫(顔回・閔子騫)の徳を祖述し、文と行とを兼ね備える者があるとすれば、それは裴幾原(子野)その人においてこそ見られる、と。