梁書卷三十一 列傳第二十五 袁昻(千里)

袁昻は字を千里といい、陳郡陽夏の人。宋末、父の袁顗が尋陽王子勛を奉じて挙兵し敗れて誅死したため幼くして孤児となる。斉に仕えたのち、蕭衍(梁の高祖)挙兵時には呉興太守として境を拒み抗命を貫くが、建康陥落後に自ら束身して帰順、梁では尚書令・司空にまで至った忠節の臣として知られる。子の君正も内史・太守を歴任した。

年表(15件)
  • 泰始初年父の袁顗が尋陽王子勛を奉じて挙兵するも敗れ誅死する。時に昻は5歳
  • 元徽中ようやく都に還ることを許される。時に15歳
  • 永明中斉の武帝により名を千里から昻と改めさせられる
  • 永元末高祖(蕭衍)の挙兵に際し呉興太守として境を拒み帰順を拒む
  • 天監2年後軍臨川王參軍事となり、高祖に謝罪と感激の上表を行う
  • 天監6年吏部尚書に召されるも辞退し左民尚書・右僕射を兼ねる
  • 天監7年國子祭酒に除せられる
  • 天監8年仁威將軍・呉郡太守となる
  • 天監11年五兵尚書となり右僕射を兼ね、侍中を加えられる
  • 天監14年馬仙琕が魏軍を破ると節を仮して労軍する
  • 天監15年右僕射に遷り、まもなく尚書令・宣恵將軍となる
  • 普通3年中書監・丹陽尹となり中衛將軍に進号する
  • 大通元年中書監を加えられ、司空・侍中・尚書令に遷る
  • 大通5年特進左光禄大夫を加えられ親信を80人に増やされる
  • 大同6年薨去。時に80歳

袁昻――出自と若年

  • 袁昻は字を千里といい、陳郡陽夏の人である。祖父の詢は宋の征虜將軍・呉郡太守、父の顗は冠軍將軍・雍州刺史であったが、泰始初め尋陽王子勛を奉じて挙兵し、事敗れて誅死した。時に昻は5歳、乳母に抱かれて廬山に匿われ、赦に遇って出るも晉安に徙され、元徽中にようやく都に還ることを許され、時に15歳であった。
  • 父・顗が誅せられた際その首は武庫に蔵められていたが、この時に至ってようやく返還され、昻は号慟し嘔血して絶え、また蘇生した。従兄の袁彖がしばしば撫慰し、昻は喪服を改め墓の傍らに廬した。のち彖とともに従叔の司徒・粲に見えると、粲は彖に「幼くして孤となりながらここまでできるとは、名器は自ずから宿るところがあると知れる」と語った。

袁昻――出仕と改名

  • 斉の初め冠軍安成王行參軍として起家し、征虜主簿・太子舍人に遷る。王儉が鎮軍府功曹史となった際、儉は京尹として後堂で昻だけを引見し、北堂を指して「卿は必ずここに居るだろう」と告げた。累遷して祕書丞・黄門侍郎。昻の本名は千里であったが、斉の永明中、武帝が「昻は千里の駒、卿にその名がある」と言い、名を昻と改めさせ、千里を字とした。
  • 出でて安南鄱陽王長史・尋陽公相となり、還って太孫中庶子・衛軍武陵王長史となる。内憂(母の喪)に遭い哀毀は礼を過ぎ、服が除かれぬうちに従兄の彖が卒した。昻は幼くして彖に養われていたため期服(一年の喪)を制したが、これを怪しむ者があり、昻は書を送って馬棱が弟の毅のために心服三年を行った故事を引き、恩義に依って服することの理を説いた。
  • 服が終わると右軍邵陵王長史に除せられ、まもなく御史中丞に遷る。時に尚書令王晏の弟・詡が広州で多く賄賂を納めていたのを、昻は事実に依って弾劾し権豪を憚らなかったため、当時「正直」と称された。出でて豫章内史となり、生母の喪に去職、喪を奉じて江路を還る際に風浪が激しく、昻は衣を柩に縛り沈溺を共にすると誓ったところ、風が止むと他の船はみな没したが昻の乗る船だけが助かり、人々は精誠の致すところと言った。葬儀を終えると建武将軍・呉興太守に起用された。

袁昻――高祖への抗命と帰順

  • 永元末、義師(蕭衍〈高祖〉)が京師に迫ると州牧郡守はみな風になびいて降ったが、昻だけは境を拒んで命を受けなかった。高祖は自筆の書を送り、禍福に門はなく興亡には数があること、斉の運はすでに尽き自分の軍威は盛んであること、范岫・申胄・沈法瑀・孫肸・朱端らがすでに帰順していることなど諭意を尽くして述べ、翻然として帰順すれば身も禄位も保てると諭した。
  • 昻は答書して、内地に用兵の場はなく、朝命により境を安んじる任にあること、東国の賤しい男子として文武の才もなく忠を尽くしたい思いはあるが力及ばぬことなどを述べ、なお躊躇して帰順を拒む理由を丁寧に説いた。建康城が陥ちると昻は自ら束身して闕下に詣で、高祖はこれを宥して問わなかった。

袁昻――天監年間の歴官

  • 天監2年、後軍臨川王參軍事となり、昻は啓を上って謝罪と感激の情を陳べた(極めて謙抑な長文の上表)。高祖は「朕は射鈎(斉桓公が管仲を許した故事)の心を持つ、卿は隔てを持つな」と答え、まもなく給事黄門侍郎に除し、その年侍中に遷り、翌年出でて尋陽太守・江州事を行う。
  • 天監6年、召されて吏部尚書となるも累表して辞退し左民尚書・右僕射を兼ねる。7年、國子祭酒に除せられ僕射を兼ねたまま豫州大中正を領す。8年、出でて仁威將軍・呉郡太守。11年、入りて五兵尚書となり右僕射を兼ね、詔により実職に転じ本官のまま起部尚書を領し侍中を加えられた。14年、馬仙琕が魏軍を朐山で破ると、詔により昻に節を仮して労軍させた。15年、右僕射に遷り、まもなく尚書令・宣恵將軍となる。
  • 普通3年、中書監・丹陽尹となり、その年中衛將軍に進号してなお尚書令を兼ね、本号のまま開府儀同三司・鼓吹を賜るも未拝のまま國子祭酒を領した。大通元年、中書監を加えられ親信30人を給されたが祭酒を辞して中撫軍大將軍に進号、司空・侍中・尚書令に遷り親信・鼓吹はもとのままとした。5年、特進左光禄大夫を加えられ親信を80人に増やされた。

袁昻――最期

  • 大同6年、薨去。時に80歳。詔して「侍中・特進・左光禄大夫・司空の昻は奄かに薨逝し、公器は寛廣、素志は誠貞、朝を端しく理を燮え嘉猷を載緝した、追栄し徳を表するは実に令典である」と称え、本官のまま鼓吹一部を贈り、東園祕器・朝服一具・衣一襲・銭20万・絹布100匹・蠟200斤を給し即日挙哀した。
  • 昻は臨終に際し遺疏して贈諡を受けぬよう求め、諸子に行状・誌銘を立てぬよう命じ、必要な物はすべて省くよう遺言した。また「私は仕官してより富貴を求めず、官序が同輩に劣らず衣食が栄辱をわきまえる程度であればよいとしてきた、これで棺を閉じても郷里に恥じることはない」「昬眀の際に呉興を汚したこと(斉末の混乱時、抗命したこと)は幸い殊恩を得て一門を保つことができた、常に誠を竭くして酬報したいと願い、朝廷が北伐を興すたびに従軍を願い出たが用いられなかった、今日瞑目してもなお恨みが泉壤に残るだろう、魂に知あらば結草の恩に報いたい、贈官があっても謹んで受けるな」と遺言した。
  • 諸子は累表して陳奏したが詔は許さず、冊して穆正公と諡した。

君正

  • 子の君正は美しい風儀を持ち身の処し方に長け、貴公子として当世に名誉を得た。まもなく吏部郎を兼ねるが母の喪により去職。服闋の後、邵陵王友・北中郎長史・東陽太守を歴任し、召されて還都しようとすると、郡民・徴士の徐天祐ら300人が闕に詣で1年の留任を乞うたが詔は許さなかった。豫章内史に除せられ、まもなく呉興太守に転じた。
  • 侯景の乱では数百人を率いて邵陵王に従い救援に赴いたが、京城が陥ちると郡に還った。君正は官に当たって政務を執り名声があったが、財産を蓄え服玩は華美であった。賊将の于子悦が攻めて来た際、新成戍主の戴僧易は拒守を勧めたが、呉の陸映公らは賊が勝てば財産を奪われることを恐れ「賊軍は鋭く当たるべきでない、今拒めば民心が従わないだろう」と説いた。君正は性怯懦で、米や牛酒を送って子悦を郊外に迎えたが、子悦は至ると財物と子女を略奪し、これにより君正は病を発して卒した。

史論

  • 史臣曰く、天は尊く地は卑しく君臣の位を定める。松や筠(竹)のように歳寒にも変わらぬ節操を持つ者があるように、袁千里(昻)は運命が崩離の世に生まれ、身は厄季(斉末の乱世)に遭ったが、独夫(斉の暴君)が徳を喪っても臣としての志は移らず、疏を抗して高祖に対しても忠節を欠かなかった、これもまた夷斉(伯夷・叔斉)の風を存するものである、終には梁室の台鼎(三公)となった、何と美しいことか、と。