梁書卷二十四 列傳第十八 蕭景(字子昭)

蕭景、字は子昭。高祖の従父弟にあたり、義師の初期から従軍して南兖州・雍州・揚州・郢州など要地の刺史・都督を歴任した梁の宗室重臣(?–523年、時に年四十七)。清廉厳正な統治と魏軍撃退の武功で知られる。弟の昌・昂・昱もそれぞれ地方官を歴任した。

年表(18件)

蕭景――出自

  • 蕭景、字は子昭。高祖の従父弟である。父の崇之、字は茂敬。左光禄大夫道賜の子である。道賜には三子があり、長子の尚之(字は茂先)、次に太祖文皇帝(蕭順之)、次に崇之である。左光禄(道賜)は郷里に隠棲し礼譲を専らに行い、衆に推された。
  • 尚之は宗の太尉江夏王参軍を歴任し治書侍御史で終わった。斉末に散騎常侍左光禄大夫を追贈された。尚之は敦厚で徳器があり、司徒建安王中兵参軍となると一府に長者と称され、琅邪の王僧虔に特に善くされて事あるごとに議決に与った。歩兵校尉に遷り官のまま卒した。天監初め文宣侯を追諡された。尚之の子・霊鈞は斉に仕えて広徳令となり、高祖の義師が至ると会稽郡事を代行したが、まもなく卒した。高祖の即位後、東昌県侯邑千戸に追封され、子の謇が嗣いだ。
  • 崇之は才幹を以て顕れ、政を為すに厳厲を尚び、官は冠軍将軍東陽太守に至った。永明中、銭唐の唐宇之が反し別動隊が東陽を破ると、崇之は害に遭った。天監初め忠簡侯を追諡された。

蕭景――生涯

  • 景は八歳の時、父の任地で喪に居し、毀(哀傷のあまり痩せ衰えること)で聞こえた。長じて学を好み才辯に富み決断力があった。斉の建武中、晋安王国左常侍に除せられ永寧令に遷り、政績は諸県中で最上とされた。永嘉太守范述曾は郡に在って廉平と称され、景に深く服し、郡門に「諸県に疑滞ある者は永寧令に就いて決すべし」と榜示した。まもなく病で官を去ると、永嘉の人・胡仲宣ら千人が闕に詣で景を郡守にと請うたが許されず、驃騎行参軍に還った。
  • 永元二年(500年)、長沙宣武王懿の勲功により歩兵校尉に除せられた。この冬、宣武王が害に遭うと景も難を逃れた。高祖の義師が至ると景を寧朔将軍・行南兖州軍事とした。当時天下は未定で江北の傖楚(土豪集団)が各地の塢壁に拠っていたが、景が威信を示すと渠帥は相次いで面縛し罪を請い、旬日で境内は平定した。
  • 中興二年(502年)、督南兖州諸軍事輔国将軍監南兖州に遷った。高祖の践阼後、呉平県侯食邑千戸に封ぜられ、使持節都督北兖徐青冀四州諸軍事冠軍将軍南兖州刺史とされた。詔で景の母毛氏を国太夫人とし礼は王国の太妃に準じ、金章紫綬を仮せられた。
  • 景は州にあって清廉厳正、吏務に明るく文案に滞りなく、下の者は欺くことができず、吏人は神のごとく畏敬した。凶年に当たり戸口を数えて賑恤し、路傍に粥を施し、死者には棺を給し、人々は大いにこれに頼った。
  • 天監四年(505年)、王師が北伐すると景は軍を率いて淮陽を出て宿豫を屠った。母の喪に遭い詔で職務続行を命じられた。五年(506年)班師し、太子右衛率に除せられ、輔国将軍衛尉卿に遷った。七年(508年)左驍騎将軍兼領軍将軍に遷る。領軍は天下の兵要を管掌するが、監局の官僚は従来驕奢な者が多く、景は職にあって厳格に接し官曹は粛然となった。制局監はみな近幸の者で不満を漏らしたため、久しく留まることはできなかった。
  • まもなく使持節督雍梁南北秦郢州之竟陵司州之随郡諸軍事・信武将軍・寧蛮校尉・雍州刺史として出た。
  • 八年(509年)三月、魏の荊州刺史元志が七万の兵を率いて潺溝に侵攻し諸蛮を駆り立てたため、諸蛮はことごとく漢水を渡って来降した。議者は蛮族が長年辺患であったのでこの機に除くべきと言ったが、景は「窮して我に帰した者を誅するのは不祥である。また魏人の侵攻に際してはいつも矛楯(防波堤)となる存在であり、蛮を尽く誅せば魏軍を防ぐものがなくなる。長策ではない」と言い、樊城を開いて降を受けた。そして司馬の朱思遠・寧蛮長史の曹義宗・中兵参軍の孟恵儁に命じて潺溝で元志を撃たせ大破し、志の長史・杜景を生擒し首級一万余を斬り、屍は漢水を覆うほどであった。景は中兵参軍崔繢を遣わし軍士に遺体を収めて葬らせた。
  • 景は州に着任すると、迎接の儀礼や器物が煩雑にならぬよう省略させ、城壁を修め辺備を警めさせ、訟事を治め農桑を勧め、郡県はみな節を改めて自ら励んだ。州内は清粛となり、漢水沿岸千余里にわたり盗賊は跡を絶った。
  • 十一年(512年)右衛将軍領石頭戍軍事に徴され、十二年(513年)再び使持節督南北兖北徐青冀五州諸軍事・信威将軍・南兖州刺史となった。十三年(514年)領軍将軍直殿省に徴され、十州の損益を掌り、月ごとに禄五万を加えられた。
  • 景は人となり風格があり弁舌に長け、朝廷において衆に仰ぎ見られた。高祖の一族としては従弟にあたるが礼遇は特に厚く、軍国の大事はみな共に議決した。
  • 十五年(516年)侍中を加えられ、十七年(518年)、太尉揚州刺史臨川王宏が法に坐して免ぜられると、詔に「揚州はまさに緝理を要し、その人材を得るべきである。侍中領軍将軍呉平侯景こそこの任にふさわしい」とあり、安右将軍監揚州とされ佐史を置くことを許され侍中はそのまま、私邸を府とされた。景は親を越えて揚州を治めることを辞譲し懇切に涙を流したが、高祖は許さなかった。州にあって特に明断と称され符教は厳整であった。ある田舎の老婆が訴えて符(判決書)を得て県に帰ったが県吏がすぐに執行しなかったため、老婆は「蕭監州の符は手を焼くほどのものだ、どうして留めておけようか」と語ったという。人にこれほど畏敬された。
  • 十八年(519年)度々表を上げて辞任を求めたが高祖は許さなかった。翌年、使持節散騎常侍都督郢司霍三州諸軍事・安西将軍・郢州刺史として出ることとなり、出発に際し高祖は建興苑に幸して餞別し涙を流した。宮に還ると鼓吹一部を賜った。州にあっても再び有能の名を得た。斉安・竟陵の両郡は魏との境に接し盗賊が多かったが、景が書を移して告示すると魏はただちに塢戍を禁じ境を保ち、以後侵略しなくなった。
  • 普通四年(523年)、州にて卒した。時に年四十七。詔で侍中中撫軍開府儀同三司を贈られ、諡を忠という。子の勵が嗣いだ。

昌(景の第二弟)

  • 昌、字は子建。景の第二弟である。斉の豫章末に晋安王左常侍となった。天監初め中書侍郎に除せられ豫章内史として出た。五年(506年)寧朔将軍を加えられ、六年(507年)持節督広交越桂四州諸軍事・輔国将軍・平越中郎将・広州刺史に遷った。七年(508年)征遠将軍に進み、九年(510年)湘州を分けて衡州を置くと、昌は持節督広州之綏建湘州之始安諸軍事・信武将軍・衡州刺史とされたが坐して免ぜられた。十三年(514年)散騎侍郎に起用され、まもなく本官のまま宗正卿を兼ね、その年安右長史として出て、太子中庶子通直散騎常侍に累遷し、再び宗正卿を兼ねた。
  • 昌は人柄も明悟であったが酒を好み、酔後にしばしば過ちがあった。州郡にあって酔うたびに人家に出入りし、あるいは独り草野に赴くこともあり、刑戮に節度を欠くことが多かった。酔中に人を殺しても醒めてから求められても悔いることがなかった。有司に劾せられ京師に留められると、悶々として楽しまず酒に溺れ体を壊し、石頭の東斎で刀を引いて自刺したが左右に救われ死には至らなかった。十七年(518年)卒した。時に年三十九。子の伯言。

昂(景の弟)

  • 昂、字は子明。景の弟である[^1]。天監初め司徒右長史を累遷し、軽車将軍監南兖州として出た。兄の景が再び南兖州を治め徳恵が人に及んでいたところ、昂が代わって来たので、時人は前漢の馮氏(馮野王・馮立の兄弟継任の故事)になぞらえた。
  • 琅邪彭城二郡太守に徴され軍号は元のままとされ、再び軽車将軍として広州刺史として出た。普通二年(521年)散騎常侍信威将軍となり、四年(523年)散騎侍郎中領軍太子中庶子に転じ、呉興太守として出た。大通二年(528年)仁威将軍衛尉卿に徴され、まもなく侍中兼領軍将軍となり、中大通元年(529年)領軍将軍となった。二年(530年)湘陰県侯邑千戸に封ぜられ、江州刺史として出た。大同元年(535年)卒した。時に年五十三。諡を恭という。

昱(景の第四弟)

  • 昱、字は子貞。景の第四弟である。天監初め秘書郎に除せられ、太子舎人洗馬中書舎人中書侍郎を歴任し、常に自ら試すことを求めた。高祖は淮南・永嘉・襄陽郡を与えようとしたがいずれも就かず、辺州を志願したため、高祖はその軽率で威望に乏しいことから抑えて許さなかった。
  • 給事黄門侍郎に遷ったのち上表し、以前の陳情が容れられなかったことを慙懼していると述べ、斉末の義師の頃はまだ幼弱で従軍できなかったが東境を転々とし艱難を経験し常に憂憤していたこと、功名を成せぬまま生涯を終えることを恐れ、自薦を憚らず改めて任用を願う旨を訴えた[^2]。
  • 高祖は手詔で答え、昱の上表の趣旨は理解するが、古来登用は先に実績を試すべきであり、光武帝の甥である章・興の例のように功を立ててから昇進すべきで、昱の才・家格をそれと比べることはできないとし、これまで淮南郡・招遠将軍鎮北長史襄陽太守・招遠将軍永嘉太守などをいずれも辺境を理由に固辞し、晋安・臨川を問うても行かなかったことを指摘した。昱の兄弟は代々地方の要職を継いでおり、同母兄の景も現に藩鎮にある以上、昱一人を特別扱いする理由はないとしつつ、朝廷に規律がないわけではないとして道理をわきまえるよう戒め、辞任の上表は聴し許した。
  • これにより坐して免官となり、門を閉ざして朝覲を絶ち、国家の慶弔にも通じなくなった。普通五年(524年)、邸内で銭を私鋳していたことが有司に奏され、廷尉に下されたが死罪は免れ臨海郡に徙された。護送の途中、上虞に至って勅で呼び戻され、あわせて菩薩戒を受けさせられた。
  • 昱は帰還すると恂恂として礼を尽くし、心を改めて道を修め持戒も精潔となり、高祖は大いにこれを嘉した。招遠将軍晋陵太守とされ、赴任すると煩雑な政令を除き法憲を明らかにし姦吏に厳しく百姓を優しく養い、旬日のうちに郡内は大いに教化された。ところが急に病を得て卒した。百姓は行き会うごとに号泣し、市里はこれで喧噪となり、郡庭に祭壇を設けて弔う者は四百余人に及んだ。田舎の女性・夏氏は年百余歳であったが曽孫に助けられて郡を出て悲泣に堪えなかったという。その恵化の感化はこれほどであった。百姓は相率いて廟を建て碑を立ててその徳を記し、京師に詣でて諡を求めた。詔で湘州刺史を贈られ、諡を恭という。

史論

  • 史臣曰く、高祖が天下を有つに及び、慶命は傍らにも流れ、一族の者はみな任用を受けた。蕭景の才弁と識断は政を益し時を佐け、まことに梁の宗室の中でも令望ある者であった。