桂陽嗣王象
- 桂陽嗣王象、字は世翼。長沙宣武王(懿)の第九子である。初め叔父の融が斉に仕えて太子洗馬に至り、永元中の宣武王遭難の際に融も害に遭った。高祖が京邑を平定すると給事黄門侍郎を贈られた。天監元年(502年)散騎常侍撫軍大将軍を加えられ桂陽郡王に封ぜられ、諡を簡という。子がなかったため象を嗣に詔し、封爵を襲がせた。
- 象は容姿閑雅で交遊に長け、生母に事えて孝で聞こえた。起家して寧遠将軍丹陽尹となったが赴任して間もなく簡王妃が薨じたため職を去り、喪が明けて再び明威将軍丹陽尹に授けられた。象は深宮で育ちながら初めて庶政に親しみ、挙措に失徳がなく朝廷に称えられた。
- 持節督司霍郢三州諸軍事・征遠将軍・郢州刺史として出て、まもなく湘衡二州諸軍事・軽車将軍・湘州刺史に遷った。湘州は元来虎害が多かったが、象の在任中はこれが静まり、古老はみな徳恵の感ずるところと称えた。中書侍郎に除せられ、まもなく本官のまま石頭戍軍事を行い、給事黄門侍郎兼領軍に転じ、さらに本官のまま宗正卿を兼ねた。まもなく侍中太子詹事に遷ったが未拝のまま持節督江州諸軍事・信武将軍・江州刺史に改授され、疾により免ぜられた。まもなく太常卿に除せられ侍中を加えられ、秘書監領歩兵校尉に遷った。大同二年(536年)薨じた。諡を敦という。子の慥が嗣いだ。
史論
- 史臣曰く、長沙の諸嗣王はみな封土を承襲し藩服に光を有した。桂陽王象は孝で聞こえ、湘州を治めるにあたって猛虎が害をやめたのは、まことに徳恵の招くところである。昔の善政もこれに勝るものはなかろう。