出自
- 周捨、字は宣逸。汝南安城の人。晋の左光禄大夫・顗の八世孫である。父の顒は斉の中書侍郎で当時名があった。捨は幼くして聡穎で、顒はこれを異とし、臨終に「お前は富貴に恵まれぬことを心配することはないが、常に道徳をもってこれを保つべきだ」と言い遺した。長じては博学多通で、義理に精しく、書を暗誦して原文を諳んじ、音韻談論を得意とした。
生涯
- 斉の太学博士に起家し後軍行参軍に遷った。建武中、魏から南帰した儒者の呉包を尚書僕射江祏が招いて講義させたところ、捨も座に加わり幾度も呉包を論破しその弁は鋭く、これにより口辯の名を得た。丹陽尹の王亮がこれを聞いて悦び主簿に辟召し政事の多くを委ねた。太常丞に遷り、梁の建国後は奉常丞となった。
- 高祖の即位後、異能の士を広く求めるにあたり、吏部尚書范雲は顒と親しかったこともあり捨の才器を高祖に推挙し、尚書祠部郎に召された。天下草創の時で、礼儀の損益は多くが捨の手によった。まもなく後軍記室参軍秣陵令となり、入朝して中書通事舎人となり、太子洗馬散騎常侍中書侍郎鴻臚卿を歴任した。
- 当時、王亮は罪を得て帰郷し故人も誰も訪れなかったが、捨だけは旧恩を篤く守り、王亮が卒するとみずから殯葬を営み、時人に称えられた。
- 尚書吏部郎太子右衛率右衛将軍に遷り、たびたび職を移されながらも常に禁省に留まり、国史・詔誥・儀体・法律・軍旅の謀議をみな兼掌し、日夜帝側に侍して機密に与ること二十余年、片時も離れることがなかった。捨は元来弁が立ち、人と談笑して終日尽きることがなかったが機密を一言も漏らすことはなく、衆はこれを深く感服した。
- 性は倹素で、衣服・器用・居処・床席はまるで貧しい平民のようであった。役所に入ると広大な堂宇であっても、捨が居ればたちまち塵埃が積もり、荻で仕切りを作りそれが壊れても手を加えなかった。
- 右衛の職にあって母の喪に去り、明威将軍右驍騎将軍に起用され、喪が明けて侍中領歩兵校尉に除せられたが未拝のまま員外散騎常侍太子左衛率に遷り、まもなく散騎常侍・本州大中正を加えられ、太子詹事に遷った。
- 普通五年(524年)、南津で武陵太守・白渦の書を得たが、それには捨へ銭百万を贈る旨が書かれており、津司がこれを奏上した。外部から入った書であったにもかかわらず有司に奏されて捨は坐して免ぜられた。右驍騎将軍知太子詹事に遷り、その年のうちに卒した。時に年五十六。
- 上(皇帝)は哭に臨んで哀慟し、左右に詔して「太子詹事豫州大中正の捨は、にわかに世を去り、悲痛の思いを禁じ得ない。その学識は堅明で志行は開敏、機要の職に長年にわたり務め、その才用はなお尽きていなかった、まことに嗟嘆に堪えない。手厚く追悼して善人を旌揚すべきである。侍中護軍将軍を贈り、鼓吹一部、東園秘器・朝服一具・衣一襲を給し、喪事は必要に応じて支給せよ」と述べ、諡を簡子とした。
- 翌年また詔して「亡き侍中護軍将軍簡子・捨は、玄学・儒学を兼ね備え文史に博く通じ、親に事えて能く孝、君に事えて忠を尽くし、機密の職を歴任しながら清貞を自ら持し、食は二味を重ねず身に重ね着することもなかった。没した日には家に妻妾もなく田宅もなく、二人の子は貧しかった。古の忠烈にも過ぎるものがある。かつて南司が白渦の一件を弾劾したのは、朕に私情があるとの外議を恐れてこの黜免に至ったものであり、この人の一介の善を思うと今も愧じる思いである。褒異を加えて善人を旌揚すべきである」と述べた。二子は弘義・弘信。