出自と経歴
- 天水西県の人。父の楊仲懐は宋泰始初に豫州刺史殷琰の将だったが琰が叛くと輔国将軍劉勔がこれを討ち、仲懐は横塘で力戦し死んだ。公則は父の軍に随い、弱冠前に陣を冒して屍を抱き号哭し気絶するほどだったが、劉勔が命じて仲懐の首を還させると公則は殮を終え徒歩で喪を負い郷里に帰り、これにより名を著した。員外散騎侍郎を歴任し、梁州刺史范柏年に宋熙太守・領白馬戍主として板授された。氐賊李烏奴が乱を作し白馬を攻めた際、公則は固守すること時を経て矢が尽き糧が竭き賊に陥ったが抗声して烏奴を罵り、烏奴はこれを壮として厚遇し同事を要したが、公則は偽って許し図り、謀が泄れると単馬で逃げ帰った。梁州刺史王玄邈がこれを表聞し、斉高帝は詔で襃美し晋寿太守に除された。任にあって清潔に自守し、永明中に鎮北長流参軍から扶風太守に遷ったが母憂で去官、雍州刺史陳顕達に寧朔将軍として起用され再び太守を領した。
- ほどなく荊州刺史巴東王蕭子響が構乱すると公則は師を率いて討伐に参加し、事が平定すると武寧太守に遷り、郡で7年、資は擔石なく百姓に便された。前軍将軍に入り、南康王の荊州で再び西中郎中兵参軍・領軍将軍となり、蕭頴冑が義挙に協同すると公則は輔国将軍・領西中郎諮議参軍・中兵は元の如しとして衆を率い東下した。当時湘州行事の張宝積が兵を発して自守し帰趨を決めていなかったが、公則の軍が巴陵に及ぶと回師して南討し、軍が白沙に次ると宝積は甲を釈いてこれに応じ、公則は撫納して湘境を定めた。和帝即位後、持節都督湘州諸軍事・湘州刺史を授けられた。
- 高祖が衆軍を沔口に勒めた際、曾山城主孫楽祖・郢州刺史張沖が各城に拠って下らず、公則は湘府の衆を率いて夏口に会し、荊州諸軍も公則の節度を受け(蕭頴達のような宗室の貴も隷した)、征虜将軍・左衛将軍・持節刺史は元の如しに進んだ。郢城平定後、高祖は衆軍に即日俱に下るよう命じ、公則は先駆を受命し柴桑を径掩、江州平定後は旌を連ね東下し京邑に直造した。号令厳明で秋毫を犯さず頼られた。大軍が新林に至ると公則は越城から領軍府の壘北楼に移屯し南掖門と相対し、かつて楼に登って戦を望んだ際、城中から麾盖を遥見し神鋒弩を縦にして射させ矢が胡床を貫き左右は色を失ったが、公則は「幾んど吾が脚に中るところだった」と談笑した。東昏が夜に勇士を選び公則の柵を攻め軍中が驚擾した際も公則は堅臥して起きず、徐に撃たせ東昏軍は退いた。
- 公則の兵は湘溪人が多く性怯懦で城内に軽んじられ、出盪のたび公則の塁を先に犯したが、公則は軍士を奨励して剋獲を重ね、城内が平定され出た者が剥奪されそうになると、公則は自ら麾下を率い東掖門に列陣し公卿士庶を衞送、出る者は多く公則の営を経由した。左将軍・持節刺史は元の如しに進号し南蕃に還鎮、公則の東下当初は湘部諸郡が未だ帰服していなかったが、公則の州への還りとともに諸屯聚もみな散った。天監元年(502年)、平南将軍に進号し寧都県侯・食邑1500戸に封ぜられた。湘州は寇乱が累年に及んでいたが、公則は刑を軽くし歛を薄くし、まもなく戸口が克復した。政は威厳なきも廉慎を保ち吏民に悦ばれた。湘俗では単家(寒門)が賂により州職を求めるならわしがあったが公則はこれを悉く断ち、辟引する者はみな州郡の著姓とし、高祖は諸州に班下し法とさせた。
- 4年(505年)、中護軍に徴され代が至るや一舸に乗って発ち賮送を一切受け取らなかった。衛尉卿に遷り散騎常侍を加え、朝廷が北伐を議し始めると公則は威名素著として京師に至り詔で節を仮され先に洛口に屯した。命を受け疾に遘り、親人に「昔廉頗・馬援も年老いてなお自ら請用を求めた、今国家は私の朽懦を厭わず前駆に任じてくれ古人に見知られたのに等しい、途上で病んでも辞事してよいものか、馬革に還葬するのが吾が志だ」と語り強いて起き舟に登り洛口に至った。寿春の士女で帰降する者が数千戸あり、魏の豫州刺史薛恭度が長史石栄らを遣わし先鋒で接戦させたが即座に石栄を斬り寿春まで逐北した。寿春を去ること数十里で疾が反り師中で卒した。時に年61。高祖は深く痛惜し即日哀を挙げ、車騎将軍・鼓吹一部を贈り諡を烈とした。公則は敦厚慈愛な人柄で兄の子を自らの子以上に慈しみ家財を悉く委ねた。学を好み軍旅にあっても手から巻を離さず士大夫に称えられた。子の膘が嗣いだが罪あり国を除かれ、高祖は公則の勲功により特に庶長子の朓に嗣がせることを詔したが、朓は歴年固辞して受けた。