兩晉演義第九十七回 南交に竄れ盧循は命を斃し、西蜀を平げ譙縦は辜に伏す (竄南交盧循斃命 平西蜀譙縱伏辜)

大雷・左里の決戦と盧循・徐道復の敗走

  • 劉道規の勝利に安堵した劉裕は自ら討伐に赴き、南陵で范崇民を破って進軍を続けた。大雷で盧循・徐道復の大船団と激突し、火攻めで賊船を焼き払い大勝した。
  • 続く左里の戦いでも柵を破って賊を大破、盧循・徐道復はそれぞれ逃走した。徐道復は始興に籠城したが孟懐玉に攻め落とされ、討ち取られた。

盧循の最期

  • 盧循は本拠の番禺が孫処・沈田子により既に陥落していたことを知り、南下して奪還を図るが、劉藩・沈田子らの援軍により撃退された。
  • 交州へ逃げ込んだ盧循は、刺史杜慧度の火攻めに敗れ、妻子を毒殺した後、自らも入水して果てた。南方の海賊禍はここに終息した。

劉毅・諸葛長民の粛清

  • 荊州刺史劉道規は病により豫州に転じ間もなく病没。後任の劉毅は劉裕への対抗心を強め、腹心を要職に配して勢力を築こうとした。
  • 劉裕は劉毅の従弟劉藩を捕らえて処刑し、劉毅追討の軍を発した。王鎮惡の急襲を受けた劉毅は江陵で自害に追い込まれた。
  • 豫州刺史諸葛長民も劉毅の運命を見て劉裕への謀反を企てたが、決断できずにいるうちに劉裕に不意打ちされ誅殺された。

蜀平定

  • 劉裕は朱齢石を益州刺史に任じ蜀の譙縦討伐を命じた。密書により外水からの進軍を指示し、劉鍾の進言で速攻策を採用、平模で秦州刺史侯暉らを破った。
  • 成都に迫ると譙縦は逃走、娘は殉節を選んで自害し、譙縦自身も譙道福に見放され自ら首をくくって果てた。譙氏の蜀は九年で滅亡した。

評語

  • 盧循・徐道復の智謀は劉裕には遠く及ばなかった。何無忌・劉毅の大軍でも制しきれなかった賊を、杜慧度は寡兵で討ち取った点に勢いの違いが表れている。劉毅・諸葛長民の企ては悉く自滅を招いた。譙縦の蜀平定も朱齢石の功に見えて、実は劉裕の深謀による。東晋の臣下で劉裕に及ぶ者はなく、まさに司馬氏にとっての曹操というべき存在であった。