兩晉演義第九十一回 江州を蒙り馮遷が逆首を誅し、成都を陥れ譙縦が疆臣を害す (蒙江洲馮遷誅逆首 陷成都譙縱害疆臣)
桓玄、江陵で再起も苦戦
- 江陵に退いた桓玄は楚帝を称し続け、卞范之を重用して厳刑で威を保とうとした。殷仲文の寛政の勧めも聞き入れなかった。
- 甥の桓歆が氐族を誘って歴陽を襲ったが、魏詠之・諸葛長民・劉敬宣らに撃退・討伐された。
- 何無忌・劉道規は桑落洲で桓玄方の何澹之と対峙。無忌は敵の旗艦が実は空であると見抜いて奪取し、心理戦で敵を潰走させ、尋陽を確保して晋の宗廟の位牌を取り戻した。
崢嶸洲の敗戦と桓玄の死
- 桓玄は自ら大軍を率いて安帝を伴い東下したが、劉毅・何無忌・劉道規らと崢嶸洲で激突。劉道規の決断で風上から放火し、桓玄軍は大敗した。
- 桓玄は安帝を連れて江陵へ逃げ戻ろうとしたが、途中で刺客に襲われて負傷を免れつつも混乱、江陵へは戻れず船で西走した。安帝は荊州別駕の保護下に置かれた。
- 益州刺史毛璩の一族(毛修之・毛祐之・費恬・馮遷ら)が枚回洲で桓玄一行と遭遇し、矢を浴びせて側近を討ち取ったのち、馮遷が桓玄を斬殺した。桓玄の子桓昇らも捕らえられ処刑された。安帝は江陵に迎えられ大赦が行われた。
桓振の反乱
- 桓玄の甥桓振と桓謙が江陵を急襲、守将の王康産・王騰之は戦死。桓振は安帝に無礼を働きかけたが桓謙に諫められて収まった。桓謙らは璽綬を返上したが、実権は桓氏側にとどまり、桓振は荊州刺史に任じられた。
- 桓振自身「叔父が自分を早く用いなかったのが敗因」と自嘲しつつ、酒色に耽り出撃を渋った。
晋軍の反攻と桓氏残党の掃討
- 劉毅・何無忌・劉道規は桓謙・桓蔚を破ったが、無忌が道規の慎重論を退けて進撃し敗退、態勢を立て直して馬頭・魯山城・偃月壘を攻略した。
- 益州の魯宗之が襄陽で挙兵し桓蔚を敗走させた。江陵は劉毅らに攻め落とされ、卞范之は処刑(桓氏で唯一の忠臣と評される)、桓振は落ち延びる途中で敗走を重ねた末、劉懐肅に討ち取られた。
- 安帝は改元し義熙元年とした。桓沖の功に免じて孫の桓胤のみ助命された。桓氏残党の桓謙・桓蔚らは後秦へ亡命した。
益州の混乱と譙縱の簒奪
- 桓振が一時江陵を再占拠する事態も起きたが、劉懐肅が桓振を討ち取り最終的に鎮圧した。
- 益州刺史毛璩は東征のため出兵させたが、蜀人の厭戦から侯暉らが参軍譙縱を擁立して反乱。毛璩の弟毛瑾が殺され、毛璩・毛瑗も成都陥落の際に殺害された。譙縱は成都を占拠して蜀王を称し、益州は大混乱に陥った。氐族の楊盛も漢中を奪い取った。
戦後の論功と劉裕の実権掌握
- 安帝は建康に還り、劉裕・劉毅・何無忌・劉道規らに要職を授けたが、劉裕は固辞して外鎮を望み、結局十六州都督として京口に駐屯し、事実上東晋の大権を握った。
- 劉毅は劉敬宣を妬み中傷したが劉裕は取り合わなかった。桓氏の残党は各地で一掃され荊湘江豫の四州は平定された。永安何皇后が病没した。
- 彭沢令の陶潜(陶淵明)が「五斗米のために腰を折れない」と辞職し隠棲、『帰去来辞』を著した逸話が語られる。
評語
桓玄は際立った功績もないまま会稽父子の乱に乗じて帝位を奪ったため人心を得られず、劉裕らの挙兵であっけなく瓦解した。安帝を人質にしていた間は弑逆に踏み切れなかった桓氏だが、それは君主への敬意というより、生き延びるための打算に過ぎないと論じられる。毛璩は忠義を貫いたが最後は部下の反乱で一族もろとも滅ぼされ、悲劇として惜しまれている。