兩晉演義第八十四回 内史を戕い謝婦のみ全うし、太守を殺し又会稽を陥れる (戕內史獨全謝婦 殺太守復陷會稽)

孫恩挙兵と会稽の陥落

  • 海島に逃れていた孫恩は勢力が小さく静観していたが、会稽世子司馬元顕が父道子から揚州刺史を奪い、東土の免奴為客の民を強制的に京師の兵に徴用したため民心が離反、孫恩はこれに乗じて挙兵し上虞から会稽へ進撃した。
  • 会稽内史は王羲之の子王凝之。五斗米道に心酔し、迂遠で無策な人物であった。妻は謝安の姪で才媛の誉れ高い謝道韞(「柳絮因風起」の逸話や、夫を「阿大中郎・封胡羯末」に及ばずと評した逸話が紹介される)。

王凝之の最期と謝道韞の奮戦

  • 王凝之は兵を出さず、天師に神兵を借りたと称して祈祷に頼るのみで、孫恩軍の接近を許し、逃げる途中で一族もろとも斬殺された。
  • 妻謝道韞は自ら刀を取って賊と戦い、数人を斬った末に捕らえられるが、孫恩の前で堂々と応対して一目置かれ、幼い孫の劉濤の助命も勝ち取って解放された。後年、太守劉柳が訪ねた際にも謝道韞の気品と弁舌は高く評価された逸話が語られる。

三呉の混乱

  • 会稽陥落後、孫恩は「長生党」と号して数十万の勢力を集め、逆らう者は一族皆殺し、県令を醢にして家族に食べさせるなど残虐な統治を行った。呉興太守謝邈をはじめ各地の太守が殺され、三呉一帯は大混乱に陥った。

晋朝の反撃と劉裕の登場

  • 朝廷は謝琰・劉牢之らに討伐を命じ、義興・呉興を奪還。劉牢之配下の参軍として彭城の劉裕(後の宋武帝)が登場し、寡兵で賊数千と渡り合い武勇を示した。孫恩は劣勢となり海島へ再び逃れた。

謝琰の慢心と敗死

  • 会稽太守となった謝琰は、孫恩の再来を軽んじて防備を怠り、部下の諫言を聞き入れなかった。孫恩が再度上陸し会稽へ迫ると、謝琰は油断して出撃し、部下の帳下督張猛の裏切りにより殺害され、家族も殺された(少子謝混のみ難を逃れ、後に劉裕が仇の張猛を捕らえて謝混に引き渡した)。

評語

  • 回末の詩は、謝家の名門にありながら驕兵が敗死を招いたことを詠む。
  • 評語は、王凝之が道教への迷信ゆえに死んだのは自業自得だが、謝道韞が一婦人でありながら賊に屈しなかったことは列女伝に特筆すべきであり、謝琰も本来無能ではなかったが驕りによって諫言を退け敗死を招いたと論じている。