兩晉演義第六十五回 姑臧を失い涼主は降虜となり、襄陽を守り朱母が斜城を築く (失姑臧涼主作降虜 守襄陽朱母築斜城)

張天錫、秦の招降使を斬る

秦は閻負・梁殊を涼へ遣わし、張天錫に入朝を促した。臣下の席仂は人質・貢物による時間稼ぎを進言するが、他の群臣は屈服を恥として反対する。天錫は主戦を決め、両使者を軍門で射殺させる。母の嚴氏は秦の強大さと涼の弱勢を説いて諫めたが、天錫は聞き入れなかった。

秦軍の侵攻と涼将の相次ぐ敗北・殉節

秦の梁彪・姚萇・王統らが涼の要地を次々に攻略し、守将梁濟は降伏。涼の将馬建は戦わずして後退し、援軍を求めるばかりであった。広武太守の辛章は独自に糧道遮断を献策するが、天錫はこれを放置する。秦軍の猛攻に馬建はついに降伏、清塞では常據が奮戦の末に自刃し、軍司の席仂も力戦して戦死した。

姑臧陥落、天錫の降伏(涼、九主七十六年で滅ぶ)

秦軍はさらに進撃し、涼の援軍も赤岸で全滅。金昌城では突風で涼兵が浮足立ち、天錫は入城を拒まれて姑臧へ敗走した。以前からの童謠や、天錫が見た緑色の狗の夢(秦将苟萇の緑袍を暗示)など不吉な予兆が語られる。城が包囲されると左長史馬芮の勧めで天錫は降伏を決意、素車白馬で出城し秦軍に降った。秦王苻堅は天錫を長安へ送り帰義侯・比部尚書等に任じた。涼は張軌以来九代・七十六年で滅亡した。

秦、代を攻める—代王什翼犍の横死と拓跋珪の誕生

秦は続いて代を攻めるため、代に逼られた劉衛辰の求援を口実に大軍を送る。代王什翼犍は劉庫仁らを退けられず、その子の拓跋実が内乱(長孫斤の謀反)で父を守り戦死するも、遺腹の子・涉圭(後の拓跋珪、北魏の祖)が生まれた。什翼犍が再び劉衛辰を討とうとしたところへ秦軍が来攻、代軍は連敗し、什翼犍自身も病のため退く。庶子の寔君が異母弟排斥を恐れる長孫斤の讒言に乗り内乱を起こして父と兄弟を殺害、代は瓦解した。拓跋珪母子は賀訥のもとへ逃れた。

秦、代を平定し劉庫仁・劉衛辰に分轄させる

秦王堅は寔君・長孫斤を捕らえて車裂きに処し、代の遺民を河東は劉庫仁、河西は劉衛辰にそれぞれ分轄させた。庫仁は拓跋珪母子を厚遇し、将来を見込んで庇護する。劉衛辰は秦への不満から反乱を起こすが庫仁に討たれ、以後勢威を失った。

苻堅の奢侈と慕容垂一族の雌伏

西北平定により秦の威勢は諸国に及び、苻堅は驕り高ぶって石趙の遺財を用いた華美な造船・造兵を進める。慕容垂の甥紹や子農は、秦の衰運を見越して燕再興の志を語り合うが、垂自身は時機を待つとして動かない。

東晋の防衛態勢整備と北府兵の成立

秦の南侵の動きを察知した東晋は防備を固め、桓沖を都督とし、謝安の甥謝玄を兗州刺史として江北を統轄させる。郗超はかつての確執を越えて謝玄の器量を認める。謝玄は彭城人劉牢之を用いて精鋭「北府兵」を組織し、これが後の抗秦の要となる。

秦軍の襄陽侵攻と朱母の斜城築造

太元三年、秦は苻丕らを主将に大軍を発して襄陽を攻める。守将朱序は漢水を頼み油断していたが、秦将石越が騎兵で渡河し外城を陥落させた。朱序の母韓氏は自ら城内を検分し、脆弱な西北隅に急ぎ「斜城」を築かせる。西北隅が陥落した後もこの斜城が秦軍を阻み、城を守り抜いた。人々はこれを「夫人城」と呼び讃えた(詩:夫人城の名誉を詠う)。

評語

降伏は決して良策ではないが、張天錫は酒色に溺れて備えを怠りながら無謀に開戦し、席仂・嚴母の諫めも聞かず忠臣を死なせ涼を滅ぼした。苻堅は涼・代を滅ぼした勢いに驕り、王猛の遺言を忘れて晋侵攻に踏み切ったが、大軍をもってしても襄陽一城を容易に落とせず、夫人城の前に頓挫した。この一事に巾幗の中の英雄ありと特筆すべきである。