兩晉演義第061回 慕容垂は禍を避け秦に奔り、王猛は兵を統べ洛陽に入る (慕容垂避禍奔秦 王景略統兵入洛)
桓温の敗走と秦燕軍の追撃
枋頭から敗走した桓温は東燕を経て撤退するが、慕容垂は焦らず「敵が遠ざかり気力が尽きた頃を狙う」と兵を進め、范陽王徳の伏兵と共に晋軍を挟撃、桓温軍は大敗し数万を失った。さらに秦の援軍苟池にも譙郡付近で襲われ、五万の兵は六、七千にまで激減した。
桓温の責任転嫁と袁真の離反
面目を失った桓温は袁真・鄧遐に敗戦の責任を負わせて弾劾。袁真は不服として挙兵し寿春に拠って燕、次いで秦に降ろうとするが果たせず病没。晋廷は桓温を咎めるどころか犒軍し、その子桓熙まで昇進させた。
慕容垂、太傅評との対立から秦へ亡命
燕では太傅慕容評が慕容垂の功績を抑圧し続け、加えて垂の妻段氏の一件(先に太后可足渾氏に讒死させられ、垂が妹を継室に迎えたが不仲)から可足渾太后・皇后とも垂を憎み、垂を除こうとする動きが強まった。垂は骨肉相残を嫌い、世子令の勧めに従い一族を連れて出奔、秦に亡命した。秦王苻堅は厚遇して垂を冠軍将軍・賓都侯に封じたが、王猛は「龍虎のような慕容父子を生かせば必ず害となる」と除くよう進言、堅は聞き入れなかった。
秦燕の外交と申紹の上書
秦と燕の使者往来の中、燕の梁琛は秦の意図を見抜き太傅評に警告するが評は聞かず、慕容垂の秦亡命を軽視した。尚書左丞申紹は燕政の乱れ(可足渾太后の専横、冗官、奢侈、賦役の偏り等)を長文で上書し改革を訴えたが、燕主暐はこれも用いず申紹を地方に出した。
王猛の洛陽攻略と慕容令の悲劇
燕が秦との約束(虎牢以西の割譲)を反故にしたことを口実に、秦は王猛を将として洛陽を攻めさせた。守将慕容築は孤立無援のうえ降伏を勧める矢文を受け、秦軍に降伏。援軍に出た樂安王臧も撃退された。王猛は洛陽出征時に慕容垂の子慕容令を伴っていたが、偽の使者を仕立てて「垂が東に帰った」と偽り令を誘い出す計略を用いた。令は騙されて燕方(樂安王臧の陣)に走り、垂も追われて連れ戻される破目になった。秦王堅は垂を罪に問わず慰めた。
評語
慕容垂の秦亡命は燕滅亡の伏線であり、垂の去就が燕の存亡に直結したと総括する。梁琛・皇甫真・申紹らの諫言がことごとく用いられなかった燕の内情(后妃の専横、宰相の貪欲)を滅亡の必然として描く。王猛が慕容父子を疑い謀略で陥れようとした狭量さも批判しつつ、後年秦が敗れ燕が興ったのは苻堅自身の驕りによるものであり、垂を殺さなかったこと自体が咎ではないとする。