兩晉演義第062回 燕地を略し連ねて敵将を摧き、鄴城を抜き孱弱な王を追って擄える (略燕地連摧敵將 拔鄴城追擄孱王)
慕容令の最期
石門から樂安王臧の元へ逃れた慕容令は疑われ、沙城へ左遷された。孤立の中で龍城奇襲を謀るが失敗し、連座を恐れた戍卒に殺され首を燕に送られた。実際には王猛の謀略が招いた悲劇である。
桓温の史書弾圧と袁真死後の壽春攻防
枋頭敗戦後も再起を図る桓温は、自らの敗戦を実録した秘書監孫盛の『魏晉春秋』に激怒し、その子孫潜に改竄を迫る。盛は拒むが、潜は父に内緒で密かに改稿した写本を桓温に渡し事なきを得た。桓温は続けて袁真没後の壽春を攻め、その子袁瑾を包囲する。
王猛の再北伐と潞川の大勝
秦の王猛は半年の準備を経て再び燕討伐に出陣。壺関・晋陽を次々に陥落させ、太傅慕容評の率いる燕の大軍と潞川で対峙。評は水を売って私腹を肥やし戦意を欠く一方、王猛は郭慶の夜襲で燕の輜重を焼き払い、鄧羌らの活躍で燕軍を潰走させ、五万を討ち取り十数万を降した。評は単騎で鄴へ逃げ帰った。
鄴城陥落と燕の滅亡
王猛は鄴を包囲し、秦王堅も自ら親征。燕の内部からも降伏者が相次ぎ、ついに鄴は陥落。燕主慕容暐は北へ逃れる途中で従者の孟高・艾朗が壮絶に戦死し、自身も秦の巨武に捕らえられた。前燕は慕容廆の建国以来八十五年で滅亡した。慕容評は高句麗に逃れるも捕縛され、堅は寛大に処遇。王猛は関東六州都督・冀州牧に任じられ鄴に鎮した。
秦の戦後処置と仇池平定
秦王堅は燕の王族・官人を長安に移し、旧臣にも官職を与えた。慕容垂は叔父慕容評の処罰を求めるが堅は聞かず地方官に留める。一方晋の桓温は壽春を陥として袁瑾・朱輔を処刑。秦はさらに仇池を攻め、内紛に乗じて楊纂を降伏させた。
評語
燕滅亡の原因として、慕容垂を疎んじて出奔させたこと、慕容評に国政を専断させたこと、秦への割譲の約束を反故にしたこと、諫言を聞かず辺防を怠ったことの四点を挙げる。王猛の一撃で三十万の大軍が総崩れとなり、燕主暐は捕虜となった。秦王堅は当初、湯武に匹敵する名君の資質を見せたが、初志を貫徹できなかったことを惜しむ。