兩晉演義第060回 洛陽を失い沈勁が義に死し、石門に阻まれ桓温が師を退く (失洛陽沈勁死義 阻石門桓溫退師)

涼州の張天錫、両国に臣従

涼州の使者が晋に上表すると、晋廷は名目上の懐柔で満足し、先に苻堅から玄靚に授けた官爵をそのまま天錫に与えた。天錫は秦にも喪を報じ即位を伝え、秦王苻堅も大鴻臚を遣わして天錫を大将軍・涼州牧・西平公に任じた。両国から冊封を受けた天錫は安穏な地位に満足し、酒色に耽って群臣の朝賀も太后・太妃への挨拶も怠った。従事中郎張慮や少府長史紀錫の諫言も聞き入れず、太王太后厳氏は憂憤のうちに世を去った。

晋哀帝の病と桓温の権勢拡大

哀帝の代、太妃周氏が死去し、燕軍が滎陽に侵入すると、朝廷は桓温を侍中大司馬・都督中外諸軍事に任じ黄鉞を仮した。桓温は王坦之・郗超・王珣らを幕僚とし、権勢を強めた。哀帝は病篤く、褚太后が再び摂政。桓温は入朝を求められたが赭圻に留まり築城して駐屯、揚州牧を遙領するに留めた。哀帝は方士に惑い金石薬の中毒で衰弱、皇后王氏も急死。

洛陽陥落と沈勁の死節

燕の太宰慕容恪は洛陽を狙い、許昌・汝南を陥落させたのち洛水に迫った。洛陽守将陳祐は兵少なく、援軍要請を名目に脱出し、長史沈勁のみを残した。沈勁は王敦の参軍沈充の子で、父の罪により長らく不遇であったが、自ら志願して五百の兵で洛陽に籠城し死守した。矢玉尽きるまで戦い、ついに陥落、生け捕られたが降伏を拒み、慕容恪の部下慕容度の進言により処刑された。晋廷は追贈のみで実質的な救援を送らなかった。

帝奕の即位と各地の情勢

哀帝は在位四年、二十五歳で崩御。弟の瑯琊王奕が即位(帝奕)。庾氏を皇后に立てるも十月で病没。会稽王昱が丞相に進む。益州では周撫死後、司馬勛が反乱を起こすが桓温配下の朱序らが鎮圧。燕はなおも兗州・竟陵を侵すが晋側が撃退。慕容恪は病に倒れ、樂安王臧・慕容評に後事を託し、大司馬職は吳王慕容垂に譲るよう遺言したが、燕主慕容暐はこれを聞かず中山王慕容沖を大司馬とした。

桓温の北伐と枋頭の敗退

慕容恪の死を機に桓温は燕討伐を決意、五万の兵で西進し湖陸を陥落させ金鄉に進駐。郗超は補給路の危うさを説いて速戦か持久かの二策を進言するが桓温は聞かず、黄墟で慕容厲を破り枋頭まで進出した。燕は慌てて吳王垂を南討大都督に任じ、秦にも援軍を要請。秦の王猛は「燕秦を共に消耗させ後で燕を併呑する」との策を献じ、堅は苟池・鄧羌らを援軍に送った。慕容垂は枋頭で持久策をとり、封孚・申胤の見立て通り桓温軍は糧道を絶たれ、范陽王徳・李邦らに石門で漕運を断たれて敗退、船を焼き武具を捨てて撤退した。

評語

洛陽を救えず沈勁を見殺しにしたのは桓温の責任であり、彼が赭圻から姑孰に移った際すぐ出兵しなかった怠慢を著者は非難する。一方、沈勁は父の汚名をそそぎ忠義の家に変えた功績として本回で特に詳しく描いた。桓温は慕容恪の死に乗じて燕を攻めたが、慕容垂の器量を見誤り、郗超の献策も聞かず兵を疲弊させて大敗した。洛陽の陥落・枋頭の敗戦はいずれも桓温の失策に帰せられるとする。