兩晉演義第五十九回 謝安石は徴に応じ節を変え、張天錫は乱に乗じ君を弑する (謝安石應徵變節 張天錫乘亂弒君)
慕容恪の輔政と慕輿根の乱
- 幼主慕容暐が即位(改元「建熙」)。慕容恪が太宰、慕容評が太傅、陽騖が太保、慕輿根が太師として輔政する体制となる。
- 功臣を自負する慕輿根は慕容恪に自立を唆すが拒絶され、逆に太后可足渾氏に恪・評の謀反を讒言。幼主暐の機転で疑いは晴れる。
- 慕容恪は慕輿根の謀反を確信すると、迅速かつ動揺なく誅殺し、混乱を鎮める。以後、恪の統治で燕の内政は安定する。
謝安の出仕
- 晋では穆帝が親政し何皇后を立てるが、謝万の敗戦による謝氏の名望低下を機に、長らく隠棲していた謝安(謝万の兄)が桓温の招きに応じて出仕。
- 高崧の「蒼生を如何せん」との戯言に謝安は苦笑するが、桓温との対面では悠然たる態度で気に入られる。謝万の死を機に謝安は桓温のもとを離れ、吳興太守として赴任する。
穆帝の崩御と哀帝の即位
- 昇平五年、穆帝が十九歳で崩御。子がないため成帝の長子瑯琊王丕が迎立され哀帝となる。
桓温の遷都論
- 燕の呂護が晋に叛いて洛陽を攻めるが撃退される。桓温は洛陽への遷都を重ねて上表するが、孫綽が民の疲弊を理由に強く諫止し、揚州刺史王述も桓温の真意は虚勢に過ぎないと見抜く。晋廷は遷都を退け、桓温もそれ以上強行しない。
涼州の内乱、続く
- 涼州の大将軍張瓘が専横し宋混の誅殺と自立を謀るが、宋混が先んじて挙兵し張瓘を討ち滅ぼす。宋混は涼州牧を称し忠義を尽くすが、まもなく病死。
- 弟宋澄が後を継ぐが、右司馬張邕に殺される。張邕は玄靚の祖母馬氏と通じて実権を握るが、玄靚の叔父張天錫が郭増・劉肅らと結んで張邕を誅殺。
- 馬氏の死後、天錫は玄靚の生母郭氏一派とも対立し、ついに玄靚を弑逆して自ら大都督・涼州牧を称する。
評語
謝安が山水に情を寄せ仕官を拒んでいたのは、弟謝万の失脚を機に桓温の招きに応じたことで、名望を保つための矯情に過ぎなかったと評される。ただし程なく桓温のもとを離れたため、逆名に染まらずに済んだ。桓温の遷都論は虚声に過ぎず、王述に見抜かれた通りであった。涼州の乱は張祚に始まり張天錫に終わるが、いずれも馬氏という一婦人によって引き起こされたものであり、張氏累代の忠貞も一婦人の手で損なわれたことは、尤物に近づいてはならぬ戒めである。