兩晉演義第五十三回 養子が宗を復し冉閔が姓を復し、孱弱な主が首を授け石氏は滅びに垂んとする (養子復宗冉閔復姓 孱主授首石氏垂亡)
羯族の大量殺戮
- 石閔は幽閉した石鑒に代わり実権を握り、城内の趙人(漢人)を優遇し羯族を排斥する令を出した。羯族の首を斬って献上すれば官位を与えると布告し、数万の羯族が殺され、外に駐屯していた羯人将兵も含めて二十万余人が殺戮された。多くの将が難を逃れて各地に割拠し、石閔に従わなくなった。
石鑒の誅殺と石閔の即位
- 汝陰王石琨・張挙・王朗らが石閔討伐に出兵するが石閔に大敗。幽閉中の石鑒は密書で外部に襲撃を促そうとしたが密告され、石閔・李農に発見されて殺害された(在位百三日)。石虎の孫二十八人も皆殺しにされた。
- 石閔は当初李農に帝位を譲ろうとする素振りを見せたが、最終的に自ら即位。国号を魏、姓を冉氏に復し(冉閔)、年号を永興とした。李農を太宰・斉王に取り立てた。
各地の自立と苻氏(前秦)の建国
- 石祗(石虎の子)は襄国で皇帝を自称(永寧)。姚弋仲は灄頭に、蒲洪は枋頭に拠り互いに勢力を競った。蒲洪は関中を狙い十余万の兵を擁したが、部下の麻秋(趙の降将)に毒殺された。子の苻健が仇を討って麻秋を斬り、跡を継いで晋に帰服する体裁をとった。
- 苻健はその後長安を攻略し関中を平定、やがて天王大単于を自称(皇始)し、国号を秦(前秦)とした。
冉閔と石祗の攻防
- 冉閔は北伐を試みるが晋には黙殺され、内部では李農を疑って殺害(三子も連座で処刑)。石祗方の汝陰王石琨・劉国らとの攻防が続き、冉閔は蒼亭の戦いで大勝したが、辛謐という隠士は冉閔の招聘を拒み、断食して死を選んだ。
- 冉閔は襄国を包囲するが、姚襄・燕の援軍・汝陰王石琨の三方連合軍に敗れ、次子冉胤も捕らえられた。鄴に逃げ帰った冉閔だったが、道士法饒の煽動に乗って無謀な出撃を行い大敗を喫した。
- 石祗配下の劉顕がさらに冉閔を攻めるが、冉閔は衛将軍王泰の助言を退けつつも反撃してこれを撃退。しかし讒言により王泰を誅殺してしまう。
後趙の滅亡
- 劉顕が寝返って石祗ら十数名を殺害し、その首級を冉閔の下へ献上。これにより後趙は石勒の建国から二十三年、七代で滅亡した。劉顕はその後も冉閔に背いたが再度敗れた。
- 各地の趙の旧臣・刺史が次々と晋に降る中、最後まで残った石虎の幼子・汝陰王石琨は建康に亡命を求めたが、晋は容赦なく処刑し、これにより石氏は完全に絶えた。
評語
- 冉閔は石氏の衰えに乗じて挙兵し羯族を一掃、帝号を称して姓を復したが、江南に助けを求めたのは晋への忠義からではなく、石祗や苻健の挟撃を恐れた窮余の策に過ぎない。石氏の恩を受けながら恩を仇で返した冉閔の行いは、段匹磾の裏切りよりもさらに度し難い。晋がこれを黙殺したのは適切な判断だった。石祗の滅亡や石琨の建康での処刑は、石勒・石虎父子の悪業への当然の報いというべきである。