兩晉演義第五十二回 羯の乱に乗じ進攻するも反って失利し、趙主を弑し位を易えるも又囚われる (乘羯亂進攻反失利 弒趙主易位又遭囚)

石世の即位と張豺の失脚

  • 石虎の死後、十一歳の石世が張豺らに擁立されて即位、母劉氏が臨朝称制した。張豺は丞相位を彭城王石遵・義陽王石鑒に譲る形をとりつつ、司空李農を除こうとしたが李農は広宗へ逃れた。
  • 関右へ向かっていた彭城王石遵は喪の報に接し河内で軍を止めた。姚弋仲・蒲洪・劉寧・石閔らの将が「張豺の専横を討て」と勧め、遵は挙兵して鄴へ向かった。鄴の人々や龍騰軍も次々と遵に呼応し、張豺は捕らえられ処刑(三族皆殺し)。
  • 石遵は石世を譙王に降し、劉太后ともども鴆殺した(在位わずか三十三日)。遵は自ら即位し、生母鄭氏を太后、妻張氏を皇后、燕王の子衍を皇太子に立てた。

石沖の挙兵と敗死

  • 幽州にいた沛王石沖は石遵の簒奪を怒り挙兵して南下したが、赦免の使者を受けて一度は撤兵を考える。しかし部将陳暹に押し切られ進軍を継続、平棘の戦いで石閔・李農の軍に大敗し捕らえられて自尽を命じられた。降兵三万余は石閔により生き埋めにされた。

晋の北伐失敗

  • 蒲洪は石閔に疑われ雍州刺史を解任されたことを恨み、晋に降った。晋の桓温は北方経略の機を窺い、征北大将軍褚裒も北伐を上表するが、蔡謨は「非常の材でなければ胡を平らげられない」と反対した。
  • 褚裒は彭城へ進軍したが、部将王龕らが趙の李農に大敗し、晋将陳逵は壽春を焼いて撤退。褚裒も広陵へ退き自ら降格を願い出、まもなく病没した。北方の遺民二十万が晋を頼ろうとしたが救済されず多くが命を落とした。

樂平王石苞の挙兵失敗と各地の離反

  • 長安の樂平王石苞は鄴への進撃を図るが将吏の離反で頓挫。雍州の豪族は晋に通じ、晋の司馬勛や仇池公楊初も呼応して趙領を攻めた。石苞は防戦に追われ、鄴攻めを断念。

燕の南進準備

  • 燕主慕容皝の死後、世子慕容俊が跡を継いだ。慕容霸らの進言により、石氏の内乱に乗じて中原を攻略する方針を固め、慕容恪・慕容評・陽騖・慕容霸らを将として大軍を動員した。

石遵の弑逆と石鑒の即位

  • 石遵は即位前に石閔を太子にすると約束していたが反故にし、燕王の子衍を太子に立てたため石閔は恨みを深めた。中書令孟准らの勧めで石遵が石閔の権限を抑えようとしたことも対立を招いた。
  • 石遵は義陽王石鑒らと謀り石閔誅殺を図ったが、鄭太后が「棘奴(石閔の幼名)がいなければ今日はない」と反対。しかし将軍周成・蘇彦らが宮中に乱入し石遵を殺害(在位百八十三日)、鄭太后・張皇后・太子衍らも皆殺しにされた。
  • これは石鑒が密かに宦官を通じて石閔と通じ仕組んだクーデターだった。石鑒が即位し(改元青龍)、石閔を大将軍・武徳王、李農を大司馬とした。

石鑒対石閔・李農の暗闘、羯族殺戮

  • 石鑒は石閔らを恐れ、樂平王石苞らに討伐を命じたが失敗し逆に返り討ちに遭う。新興王石祗(石鑒の兄弟)は姚弋仲・蒲洪と結んで石閔らに対抗する動きを見せた。
  • 龍驤将軍孫伏都・劉銖らが羯族三千人を集めて石鑒を奉じ石閔・李農を討とうとしたが敗死。以後、石閔は宮中を制圧し、石鑒を禦龍観に幽閉して自由を奪った。

評語

  • 石遵が石世を廃し、石鑒が石遵を殺し、石閔が石鑒を幽閉するという数か月の内乱は、石虎の極悪の報いというべきである。一方、晋は好機を捉えられず、桓温の出兵も示威に留まり、褚裒の北伐も一敗しただけで腰砕けとなった。東晋の臣は空論に長じ実行力に乏しいことが露呈し、蔡謨の見通しの正しさが証明された。