兩晉演義第五十一回 逆子を誅し火を放ち屍を焚き、病める主を責め顔を抗して極諫する (誅逆子縱火焚尸 責病主抗顏極諫)

佛圖澄の予言

  • 太子石宣は弟の秦公石韜を殺し父も弑逆しようと企て、高僧佛圖澄を訪ねる。塔上の鈴の音を澄は隠語で答え、石韜が澄を訪れた際には「血の臭いがする」と匂わせるなど、澄は暗に凶事を予告していた。
  • 石虎が見た夢(龍が西南に落ちる)を澄に問うと、澄は「賊が近くにいる、東方で流血の恐れがある」と警告。杜后はこれを一笑に付したが、事は現実となる。

石韜暗殺

  • 秦社の日、異様な雲の変化が現れ、韜自身も天変を語る。宴席で韜は不吉な予感を口にし涙を流した。その夜、寺で宿泊した韜は何者かに惨殺される(腹を裂かれ手足を断たれた無残な死体で発見)。
  • 石虎は悲嘆に暮れ喪に赴こうとしたが、司空李農の諫めで思いとどまり、佛圖澄の予言を思い出す。東宮の役吏の密告により、殺害が太子石宣の指図であったと発覚。

石宣の処刑

  • 石虎は激怒し、石宣を席庫に幽閉、鉄環で頷を貫いて柱に繋ぎ、糞土を混ぜた飯を食わせるなど凄惨な扱いをした。佛圖澄が「宣を殺せばさらに禍が重なる、寛容にすれば福運が六十年続く」と諫めたが虎は聞き入れず。
  • 石宣は薪の上に吊るされ、目をえぐられ舌を抜かれ手足を断たれた上、生きたまま焼かれるという凄惨な刑に処された。虎は宮妾数千人を従えて高台からこれを見物し、灰は宮門にまき散らされた。石宣の妻子二十九人も皆殺しにされ、幼児一人も助命嘆願を退けられ殺された。
  • さらに東宮の官吏三百人、宦官五十人も車裂きに処され死体は漳水に捨てられた。東宮の衛卒十万人余も涼州へ流謫。太史令趙攬(かつて変事を予告していた)も連座で殺され、寵妃柳氏も自害を強いられた(虎は後悔しつつも柳氏の妹を後宮に入れて代わりとした)。

太子冊立をめぐる暗闘

  • 石虎が後継者を議した際、燕公石斌・彭城公石遵が候補に挙がったが、戎昭将軍張豺が「母の身分が卑しい」と反対し、実は自らが擁立した安定公主(劉曜の娘、虎の寵妃)所生の幼子・石世(十歳)を推そうと画策。
  • 石虎は張豺の言に動かされ、太尉張挙・司空李農らも同調して石世を太子に立てることに決した。大司農曹莫のみが反対したが押し切られ、劉氏が皇后に立てられた。

佛圖澄の入滅

  • 佛圖澄は宴席で不吉な予言(「殿には棘が茂り衣を破る」)を残し、自ら死期(翌年戊申の後の己酉に石氏は滅びる)を悟って弟子に告げ、まもなく入滅した。石虎は手厚く葬ったが、後に墓を開けると屍がなく石のみが入っており、不吉がって心を痛めた。

梁犢の乱

  • 東宮の衛卒だった梁犢は謫戍への不満から反乱を起こし、晋の名を借りて秦雍の地を席巻、長安にも迫った。石虎は李農・張賀度らを派遣したが敗れ、燕王石斌・姚弋仲・蒲洪らに討伐を命じた。
  • 姚弋仲は石虎に対し歯に衣着せず直言し(幼君擁立への懸念など)、破格の待遇で出陣。まもなく梁犢を大破し首謀者を斬った。

石虎の死と後事

  • 石虎の病が篤くなる中、太子擁立や政争が続き、劉后と張豺が謀って燕王石斌を排斥・処刑。彭城王石遵は関右へ追いやられ、龍騰軍の将士らが燕王の擁立を求めたが、劉后らはこれを退け、張豺が太保・録尚書事として実権を握った。
  • ついに石虎は昏睡を繰り返した末に崩御した。

評語

  • 石邃・石宣と相次いで凶悪な子が出たのは石虎自身の淫悪の報いであり、虎は反省せず宣に酷刑を加えた。石邃・石宣の妻子まで皆殺しにするなど、骨肉に対しても情け容赦がなかった。晩年に幼子石世を立てたことも劉曜の娘を留めた報いといえる。姚弋仲の直言を虎が咎めなかったのは虎自身にやましさがあったからだろう。石虎の禍・張豺の禍がそれぞれ「虎」「豺」の名の通りに連鎖したのは天の巧みな配剤というべきである。