兩晉演義第四十七回 劉翔を餞し晋臣が責めを受け、高釗を逐い燕主が威を逞しくする (餞劉翔晉臣受責 逐高釗燕主逞威)

李壽の東征計画と挫折

  • 漢主李壽は趙との連携に喜び、龔壮の再三の諫止を無視して大軍艦を建造し東征の準備を進めたが、群臣の反対と龔壮の切諫により結局出兵を断念した。

石虎と諸国の外交

  • 李壽は捕虜となっていた旧臣李閎の送還を趙に求め、石虎は中書監王波の献策で懐柔策として快く応じた。一方、涼州の張駿が趙に貢物を送りつつ文面が高慢だったため石虎は激怒しかけたが、侍中石璞の諫めで矛を収め厚遇に転じた。

燕の奇襲と庾冰への詰責

  • 石虎が大軍で燕への総攻撃を準備するが、燕王慕容皝はその隙をついて薊城方面を奇襲し、幽冀の民三万余戸を略取して帰還。石虎は間に合わず出兵を断念した。
  • 皝は晋に派遣していた使者劉翔がいつまでも王号冊封を得られないことに怒り、中書監庾冰に「外戚の権勢を私せず国難に尽くすべき」と痛烈な書簡を送った。

燕王への冊封と劉翔の直言

  • 庾冰・何充は劉翔の直言(江南の安逸を戒める言葉)に恥じ入り、慕容廆(皝)を大将軍・幽州牧・大単于・燕王に冊封するよう上奏、成帝はこれを許した。劉翔は帰国に際し餞別の席で北伐の必要を説き、中護軍謝広らの共感を得た。

杜皇后の死と成帝の崩御

  • 杜皇后が二十一歳で病没。翌年、成帝も病篤くなり、庾冰の主導で幼い皇子(丕・奕)を避け、成帝の母弟・瑯琊王岳(後の康帝)を後継に立てる遺詔が定められた。成帝は二十二歳で崩御。庾懌は江州刺史王允之への毒殺未遂が露見し自殺した。

康帝の即位と皇后冊立

  • 瑯琊王岳が即位し康帝となる。褚裒の娘を皇后に立て、庾冰・何充が輔政。建元と改元したが、郭璞の讖文「立始之際丘山頹」との符合が指摘され庾冰は動揺しつつも改元を維持した。

慕容翰の帰還と高句麗遠征

  • かつて出奔していた慕容翰は宇文部で偽狂を装って監視を逃れ、名馬と弓矢を持って燕に帰還、弓の腕前で追手を退けた。皝は翰を歓待し建威将軍に任じた。
  • 翰の献策により、皝は宇文部討伐に先立ちその背後を脅かす高句麗を攻めることとし、南北二道から進軍。翰の率いる南道の奇襲策が図に当たり、高句麗王釗の主力(北道)を外して都・丸都を陥落させ、釗の父の遺骸を発掘し母妻子を捕虜とし、財宝・民五万余を捕獲、丸都城を破壊して撤退した。釗は臣従を誓い父の遺骸返還と引き換えに母を人質として差し出した。

(詩:母妻を捕らえられ丸都の王気も尽きた、才智なくして敵の侵略を防げようかと歎ずる内容)

評語

国恥を雪げず国仇に報いられぬまま偏安を続ける東晋の姿を、慕容廆や劉翔の諫言に照らして批判する。庾冰が甥(康帝)を擁立したのは私心も交じるとし、燕の慕容廆や燕使の批判に対する何充らの対応の消極性を指摘。慕容皝が慕容翰の献策で高句麗を破った手際は評価しつつ、功臣は敵国滅亡後に禍を招きやすいとし、翰の将来を暗示して結ぶ。