兩晉演義第四十四回 愚孝を尽くしてかえって蜀の乱を招き、遺孤を保ち終に代王を立てる (盡愚孝適貽蜀亂 保遺孤終立代王)

石虎の南下と襄陽防衛

  • 石虎の南下に晋廷は動揺したが、趙軍が退いたため事なきを得た。石虎は帰還後、征虜将軍石遇に襄陽の桓宣を再度攻めさせるが、桓宣は地道を掘る趙軍を火計で撃退し、荊州からの援軍もあって石遇軍は撤退した。桓宣は南陽・襄陽等の軍事を統括する任を得て、辺境は落ち着きを取り戻した。

成帝の親政と王導への礼遇

  • 成帝は十歳を経て咸康と改元し、王導を篤く敬い、みずから王導邸を訪れて酒宴を共にするほど信頼していた。
  • 王導は妻曹氏の嫉妬深さに悩まされ、別宅に囲った妾たちを牛車で密かに避難させる一幕もあった。太常蔡謨に「九錫を賜るところでしたな」とからかわれ赤面したが、後には気にせず水に流した。

成漢の内情(李雄の治世と後継問題)

  • 蜀を治める成主李雄は戦乱の中でも安定した治世を保ち、学校を興し税を軽くして民を休ませた。ただし官制は緩く身分の区別も曖昧であった。
  • 李雄は后任氏に子がなく、戦死した兄李蕩の子で仁孝な李班を太子に立てた。叔父の李驤や司徒王達は「嫡子を立てず甥を立てるのは禍の元」と諫めたが、李雄は兄の遺志を重んじ聞き入れなかった。

涼州・東晋との駆け引き

  • 涼州牧張駿は李雄に帝号を捨て東晋に臣従するよう勧めるが、李雄は「晋に明君が出れば従う」と婉曲に断った。後に張駿は趙に圧迫されて趙に臣従しつつ、東晋への使者派遣のため成に道を借りようとする。
  • 李雄は使者張淳を密かに暗殺しようとしたが計画が漏れ、張淳に問い詰められて言い逃れた。李雄は張淳の忠義に感服し、厚遇して東晋への使いを許した。

成漢の内乱への道

  • 太傅李驤の死後、その子李寿が軍事の実権を握り、巴郡・朱提・寧州などを次々に攻略して勢力を広げた。
  • 李雄は晩年、悪性の腫れ物を患い、子の李越らは近寄るのを嫌ったが、太子李班だけは自ら膿を吸い出し看病に尽くした。李雄は在位三十年で没し、李班が李寿の輔佐で即位した。
  • 実子を差し置かれたことに不満を持つ李越は、弟の李期と結んで喪中の李班を殺害し、太后任氏の命と偽って李班を廃太子とした。李期は帝位を李越に譲られたが、結局自ら即位した。
  • 即位後、李期は叔父の李寿と兄の李越の間で疑心暗鬼を生み、忠臣の羅演・上官淡らを粛清するなど失政を重ね、成漢の国勢は急速に衰えていった。

代国の興亡(鬱律の死と什翼犍の登場)

  • 代王鬱律は武勇に優れ勢力を広げたが、先代の妃惟氏に暗殺され、幼い遺児什翼犍は母王氏の機転で難を逃れた。もう一人の遺児翳槐も外部に逃れて生き延びた。
  • 惟氏は自子の賀傉を立てて摂政となるが病死し、賀傉が親政するも各部族の離反に苦しみ心労で早世。弟の紇那が継ぐが、賀蘭部の藹頭を巡る争いから勢力争いが続いた。
  • 藹頭に擁立された翳槐が代王となるが、藹頭の専横に耐えかねてこれを謀殺したため各部族の離反を招き、紇那に敗れて趙に亡命。石虎の助けで復位し盛楽に都を築いた。
  • 翳槐は死に際し、弟屈孤に什翼犍の擁立を遺言。屈孤の兄屈が帝位を狙うが誅殺され、屈孤は自ら「什翼犍を迎えるべき」と述べて忠義を貫き、趙へ赴いて石虎から什翼犍を無事連れ帰った。

什翼犍の即位と代国の制度整備

  • 什翼犍は十九歳で即位し、建国と紀年を定め、代の官制・刑律を整備して善政を敷き、数年で東西南北に広く勢力を及ぼした。
  • 定都の議論では母王氏の「定住すれば逃げ場を失う」との助言を容れて城を築かず、境内を南北二部に分けて統治した。
  • 皇后を迎えるにあたり、什翼犍は強国である燕の慕容廆に和親を求める使者を送った。

(詩:遠く幣を奉じて婚姻を乞い、名門との結びを外援としようとする歌)

評語

李雄が実子でなく甥の李班を立て、李班が孝を尽くして李雄に仕えたことは、それ自体は美徳といえる。しかし堯舜のような真の盛徳がなければ、宋宣公や呉王余祭の例のように禅譲・兄弟継承はかえって禍を招く。李班は仁孝に見えて実は迂闊であり、盗跖のような者に礼儀を説くような危うさがあった。一方、什翼犍は幼くして苦難を経ながらも、惟氏にも石虎にも害されず、天に守られたかのように王位に至った。鬱律が無実の罪で殺され、賀傉が才なくして国を得たことも巡り巡って什翼犍の即位につながったのであり、翳槐の人を見る目と拓跋孤の義を守る心があってこそ実現した必然の道理といえよう。