兩晉演義第三十七回 大悪を平らげ群臣が爵位を進め、幼主を立て太后が朝に臨む (平大憝群臣進爵 立幼主太后臨朝)

王敦の死と王応の隠蔽

  • 意識を取り戻した王敦は「自分は死んでも即位の体裁を整えてから喪を発せよ」と最期まで簒奪の野心を語り、間もなく死ぬ。養子の王応は死を秘して蝋で遺体を包み隠し、政務も軍務も顧みず享楽にふける。

沈充・王含の敗走

  • 明帝は沈充に降伏を勧めるが沈充は拒み挙兵する。各地で虞潭・劉超・鍾雅・祖約らが呼応して蜂起し、沈充・銭鳳軍は劉遐・蘇峻の軍に迎撃され大敗、溺死者多数を出す。
  • 尋陽太守周光(周撫の弟)は姑孰で王応に敦への面会を拒まれ、敦の死を悟る。兄の周撫にこれを告げて翻意させ、援軍を失った王含は陣を捨てて夜逃げする。

敦党の掃討

  • 明帝は還宮して大赦を行うが敦一党は対象外とし、庾亮・温嶠らに追討を命じる。王含は父子で荊州の王舒を頼るが、迎え入れると見せかけて捕らえられ、川に沈められて殺される。
  • 沈充は旧知の周儒に裏切られて殺され首級を建康に送られる。銭鳳は周光に討ち取られる。
  • 朝廷は王敦の墓を暴いて屍を晒し首を梟したが、郗鑒の進言で敦家に遺体を返し私的に葬ることを許した。敦党の周撫・鄧岳は逃亡したが後に恩赦で復帰する。

論功行賞と敦党への恩赦

  • 明帝は王導・温嶠・卞壷・庾亮・劉遐・蘇峻・郗鑒・応詹・卞敦・趙胤らを次々に爵位・官職で顕彰する。
  • 温嶠は上疏し、陸玩・羊曼ら敦の下で已むを得ず仕えていた者たちの助命を訴える。郗鑒は「臣節を全うできなかった以上は責めるべき」と反対するが、明帝は温嶠案を採り敦党の連座を全て免除する。
  • 戦死した張茂の妻陸氏が上書して夫の名誉回復を求め、太僕の追贈を得る。
  • さらに王導は太保兼司徒、西陽王羕は太尉、応詹は江州刺史、劉遐は徐州刺史、蘇峻は歴陽内史、庾亮は護軍将軍、温嶠は前将軍に叙せられる(王導は固辞)。

周札追贈をめぐる論争

  • 明帝は譙王承・甘卓・戴淵・周顗・虞望・郭璞・王澄らを追贈するが、石頭城を開いて敵を招き入れた周札は対象から外される。
  • 王導は周札の追贈を強く主張し、卞壷・郗鑒は「周札の行いは忠節と同列にできない」と反論するが、明帝は結局王導の意見を容れて周札にも諡を贈る。

皇太子の冊立と陶侃の善政

  • 庾后所生の長子・衍(5歳)を皇太子に立てる。
  • 陶侃は荊州刺史に転じ、終日机に向かって政務を処理し、寸暇を惜しんで働くことを部下に説き、賭博道具を没収して規律を正し、農作業を軽んじる者を厳しく戒めるなど、勤勉と清廉で知られ、竹屑や木くずまで無駄にしない倹約ぶりが評判となる。

明帝の急死と太后臨朝

  • 明帝は閏七月に急病を得て重篤となり、王羕・王導・卞壷・郗鑒・庾亮・温嶠・陸曄らに幼い太子衍の後見を託す遺詔を残して崩御する(在位3年、享年27)。
  • 病床で庾亮が鍵を求めた際、南頓王宗に拒絶され叱責されたことを恨みに思っており、明帝の死後、庾亮は宗と虞胤に謀反の疑いをかけて宗を誅殺し、宗の一族を貶める。
  • 太子衍が即位(成帝)すると、王導は庾亮への忌避から病と称して即位式を欠席するが、卞壷に諫められて出席する。皇太后(庾氏)の垂簾臨朝が決まり、王導は録尚書事、庾亮は中書令として補佐するが、実権は太后の兄である庾亮に集中する。

功臣たちのその後

  • 尚書左僕射の鄧攸(鄧伯道)、徐州刺史の劉遐、江州刺史の応詹が相次いで世を去る。
  • 鄧攸は戦乱の中で我が子を諦めて甥を救った逸話や、清廉な地方官としての功績が語られるが、子を失った末に後継ぎを得られず「天道無知」と嘆かれる。
  • 劉遐は妻・邵氏とともに武勇で知られた将であったこと、応詹は各地で反乱平定に功があり、民に慕われた清廉な人柄であったことが紹介される。

評語

  • 王敦の残党を一律に赦したのは寛大に過ぎるとし、温嶠の上疏も王導の陰の意向によるものではないかと疑う。
  • 周札の追贈は道理に合わず、卞壷・郗鑒の反対が正論であったにもかかわらず王導が押し通したことを、後の蘇峻・祖約の乱の伏線として批判する。
  • 明帝が若くして没し、幼帝が立ち若い太后が臨朝して国政が外戚一人に委ねられたことに、著者は江左の前途への不安を表明して結ぶ。