兩晉演義第三十五回 逆賊が横行し廷臣が誅戮を受け、皇霊は馭を失い嗣子が宗を承ける (逆賊橫行廷臣受戮 皇靈失馭嗣子承宗)

王敦、石頭に居座り朝廷を脅す

  • 刁協は逃亡中に殺され、劉隗は後趙へ亡命した。王敦は君側を除いた後も兵を退かず石頭城に居座り、元帝は百官を石頭へ遣って撤兵を勧めさせる。
  • 王敦は戴淵・周顗に皮肉を浴びせるが、周顗は臆せず「王師が敗れたのは自分の不徳」と応じ、敦を言い負かす。
  • 王導は敦に「もう十分だから兵を収めよ」と諭すが、敦は刁劉の残党を除くべきだと言い張り、応じない。

官爵の授与と太子廃立の企ての失敗

  • 元帝は大赦を布き、王敦を丞相・都督中外諸軍・録尚書事・武昌郡公・江州牧に進めるが、敦は「国のため害を除きたいだけ」と受爵を偽って辞退する素振りを見せる。
  • 敦は太子(後の明帝)の廃立を企て、温嶠を呼びつけて太子の徳を詰問するが、温嶠と群臣が口を揃えて太子の賢孝を弁護したため、廃立は沙汰止みになる。

周顗・戴淵の惨殺

  • 元帝は周顗に大事の行方を尋ね、顗は「二宮は無事だが自分たちの生死は分からない」と答え、逃げずに難に殉じる覚悟を示す。
  • 王敦の参軍呂猗が周顗・戴淵の排除を進言し、敦は王導に三度意向を尋ねるが導は沈黙を貫く。敦は独断で両名の逮捕を命じる。
  • 謝鯤・王嶠が助命を諫めるが敦は聞き入れず、周顗は太廟で敦の逆を大声で罵りながら刑死し、戴淵も同時に処刑される。二人の最期の態度の落差(周顗は従容、戴淵は顔色を失う)が対比的に描かれる。
  • 王彬は周顗の死を悼んで敦の前で涙を流し、敦を面と向かって非難したため殺されかけるが、王導が取りなして事なきを得る。
  • 後に王導は周顗が実は自分を庇う上表をしていたことを知り、「自分が殺したわけではないが、自分のせいで殺された」と悔いる。

甘卓の逗留と非業の死

  • 鎮南大将軍甘卓は軍を進めず様子見を続け、王敦は甥の卬を送って和睦を持ちかけ、朝廷の使者も撤兵の幡を届けさせる。甘卓は周顗・戴淵の死を知って涙し、進撃をやめて襄陽へ引き返す。
  • 部下の秦康・樂道融は進撃続行を強く諫めるが甘卓は聞かず、道融は憂憤のうちに病没する。
  • 王敦は要職を勝手に入れ替えて武昌へ戻ろうとするが、謝鯤に入朝を勧められると激怒し、鯤は間もなく病没する。

湘州の攻防と譙王承の最期

  • 王敦配下の魏乂らが湘州を包囲し、譙王司馬承は籠城を続ける。援軍要請に出た周該・周崎は捕らえられ、周崎は降伏を偽って伝えよと命じられるも城兵に決死の抗戦を呼びかけて殺される。周該は拷問にも屈せず真情を漏らさなかった。
  • 籠城百余日で兵糧が尽き、湘州は陥落。長史虞悝は罵倒しながら斬られ、一族も殉じる。譙王承も捕らわれ、檻車で武昌へ送られる途中、荊州刺史王廙の手で殺害される(享年59)。従者の桓雄も殺されるが、階と延の二人は遺骸を都まで運び葬った。
  • 湘中の檄文に署名した易雄も武昌に拘留された末、王敦の密命で殺される。長沙主簿鄧騫は機知で難を逃れ、魏乂に取り立てられた後に病を口実に引退した。

甘卓の非業の最期と王敦の専横

  • 朝廷は陶侃を湘州刺史に任じるが、王敦の妨害を受け陶侃は動かず様子見する。
  • 一方、襄陽に戻った甘卓は情緒不安定になり幻覚に苦しむようになる。王敦の密命を受けた襄陽太守周慮に謀られて夜襲され、四人の子とともに殺害される。
  • 王敦はますます驕り高ぶり、沈充・銭鳳らを腹心とし、周囲は暴虐の限りを尽くす。荊州から江南一帯が事実上王敦の勢力圏と化す一方、淮北・河南では後趙の侵攻が相次ぎ、徐龕・郗鑒・卞敦・李矩・郭默らの晋軍が敗退し、後趙が青州・東莞・東海・河南の広域を奪っていく。

元帝の憂死と明帝の即位

  • 元帝は内に叛臣、外に強敵を抱えて号令が国門を出ない有様となり、頼みとした荀組も老齢で急死する。憂鬱のうちに病臥し、王導に遺詔を託して太子紹(明帝)の即位を命じ、崩御する(在位5年、享年47)。倹約を旨とした治世は評価されるが、統治の甘さが招いた結果でもあった。
  • 太子紹が即位し明帝となる。生母荀氏を建安郡君に立て、元帝を建平陵に葬った後、太寧と改元。庾后を立て、庾亮を中書監に、華恆・郗鑒をそれぞれ要地の督軍に据え、密かに王敦への備えを固める。
  • 王敦は上表して祝意を示しつつ入朝を促すが、明帝は逆にこれを利用して敦を召し、破格の礼遇を与えて入朝させようとする。敦は姑孰まで来て屯留し、王導の司徒転任と自身の揚州牧兼任を求め、進発の構えを見せる。
  • 従弟の王彬が敦を諫めて危うく難に遭いかけるが赦される。郗鑒は敦のもとに一旦留め置かれた後、放免されて建康に入り、明帝と討伐の密議を交わす。

評語

  • 元帝は遠略に欠ける凡庸な君主であり、王敦を長江上下流に割拠させた上、刁協・劉隗を用いて敦を疑い挑発しながら頼れる将も相もなく、坐して神京を失陥させたと評す。
  • 譙王承は城と運命を共にした忠節の士として最も称えられ、甘卓は逗留の末に非業の死を遂げたことと対比される。もし樂道融の献策通り彭澤を絶ち武昌を衝いていれば功を立て得たろうにと惜しむ。
  • 元帝は憂憤のうちに中年で崩じたが、幸い託した人材が悪くなかったため亡国には至らなかった、と結ぶ。