兩晉演義北宮純は力戦し群盗を破り、太傅の司馬越は諸臣を専断で殺す(第二十一回 北宮純力破群盜 太傅越擅殺諸臣)

太傅越の人事と王衍の「三窟」

  • 太傅越は許昌に鎮しながら朝政を専断し、和鬱を鄴の守備に、王衍を司徒に任じた。王衍は身内の王澄(荊州刺史)・王敦(青州刺史)を推挙し、自ら「三窟」を誇ったが、二人とも実務向きではなかった。
  • 荊州は前任・劉璠の善政の後を継いだが、山簡への交代で再び乱れ始める。王敦は残忍な性格を従弟の王導や潘滔から危惧されていた。

茍晞の厳酷な統治と青州への異動

  • 王敦はすぐ召還され、兗州刺史・茍晞が青州刺史に転じた。潘滔の進言で越は自ら兗州牧を兼ね、茍晞を征東大将軍・青州都督とした。
  • 茍晞は厳刑を好み、身内にも容赦せず甥を処刑するなど「屠伯」と呼ばれるほど恐れられた。弟の茍純はさらに残虐で、「一茍不如一茍、小茍毒過大茍」と謡われた。

清河王覃の死と王彌・劉靈の蜂起

  • 呂雍・陳顔らが清河王覃擁立を謀った疑いで、越は矯詔により覃を幽閉のうえ鴆殺させた。
  • 盗賊の王弥・劉霊が各地で暴れ、王彌は許昌を突いて洛陽に迫る事態となった。涼州刺史・張軌(前涼の基を開いた人物)は督護・北宮純らを援軍に送った。
  • 洛陽での攻防で北宮純が奮戦し、王弥軍を大破。追撃戦でも晋軍が勝利し、王彌は敗走して劉淵の下に投降、劉霊も同様に降った。

劉淵、平陽に遷都し皇帝を称す

  • 劉淵は北宮純に敗れた劉聡を憂えつつも、侍中劉殷・王育の進言を容れ大挙南下。平陽・河東を攻略し、路述ら守将を討ち取った。
  • 石勒・劉霊が鄴を攻め、征北将軍和鬱は戦わず逃亡。劉淵はついに皇帝を称し永鳳と改元、諸子・重臣を王侯に封じた(氐の李雄がこれより2年早く成漢を建てていたことも付記される)。
  • 石勒・劉霊はさらに魏郡などを攻略し、太守王粋を捕らえて処刑。予兆として熒惑の異変が語られ、劉淵は平陽に遷都、璽を得たとして河瑞と改元した。

太傅越の専横と諸臣誅殺

  • 越は鄄城・濮陽・滎陽と転々としたのち兵を率いて突然入朝し、懷帝に「君側の奸を除く」と称して兵で脅し、王延・何綏・高堂沖・繆播・繆胤らを無実のまま処刑させた。
  • 懷帝は涙ながらに繆播らの助命を試みたが越はこれを聞かず、独断で処刑した。何綏の一族についても、かつて祖父・何曾が子孫の奢侈と破滅を予言していた逸話が語られる。
  • 越はさらに宮中の宿衛を掌握し、諫言した散騎侍郎・高韜も自殺に追い込まれるなど、専横を極めた。

劉聡・石勒の南進と垣延の詐降策

  • 石勒は張賓を謀主に迎え鉅鹿・常山方面へ進撃。淮南内史・王曠は融の諫めを聞かず進軍して大敗、河東は漢軍に席巻された。
  • 弘農太守・垣延は偽りの投降で劉聡の陣営を奇襲し一度は撃退したが、劉聡は間もなく大軍を率いて再来する。

評語

太傅越は八王の乱の最後の生き残りだが、清河王を鴆殺したことでその罪が明らかになった。外敵には北宮純や張軌の援軍に頼るのみで自ら戦わず、内では帯剣入朝して諸臣を殺すなど、趙王倫さながらの専横を働いた。八王の乱があったからこそ五胡の侵入を招いたのであり、身から出た錆というべきである。