兩晉演義第九回 楚王は裏切りに遭い誅殺され、周処は後援を失い命を捨てる (遭反噬楚王受戮 失後援周處捐軀)
汝南王亮・衛瓘の排除
- 太宰汝南王亮と太保衛瓘は、剛愎で殺戮を好む楚王瑋の兵権を奪おうとするが、瑋は長史公孫宏・舎人岐盛の勧めで賈后に取り入り、太子少傅の地位を得て切り抜ける。
- 亮・瓘は瑋の腹心岐盛の誅殺を図るが、岐盛はそれを察知し、賈后に「亮・瓘が廃立を企てている」と讒言する。賈后は恵帝に密書を書かせ、瑋に亮・瓘の討伐を命じさせる。
- 瑋は自らの私怨を晴らす好機と考え、諸軍を動員して亮・瓘を襲撃する。亮は縛られた末に乱兵に嬲り殺しにされ、瓘も清河王遐の配下だった榮晦(かつて瓘に追放された恨みを持つ)に一族もろとも斬殺される。
楚王瑋の誅殺
- 岐盛はさらに賈謐・郭彰の排除まで瑋に勧めるが、瑋は躊躇して実行しない。
- 張華の進言で、賈后は一転して「瑋が大臣を擅殺した」として瑋を捕らえさせる。瑋は恵帝の直筆の密書を示して弁明するが聞き入れられず、処刑される。公孫宏・岐盛も三族もろとも誅される。
- 衛瓘の娘や旧臣の訴えにより、榮晦の専横な殺戮が問題視され、榮晦とその一族が処刑された上で、亮・瓘の名誉が回復される。
賈后の専政と二十四友
- 賈后は張華・裴頠らを重用して政務を委ね、朝野は元康年間、表面上は安定を保つ。一方で賈謐は驕奢を極め、石崇・陸機・陸雲・潘岳・左思ら文人二十四人(いわゆる「二十四友」)と交遊し名声を高める。
- 賈后はますます専横になり、金墉城に幽閉されていた楊太后の侍女を取り上げて衰弱死させる。
天変地異と匈奴・氐羌の反乱
- 弘農の雹害、淮南の水害・山崩、複数州にまたがる大水害、武庫の火災(孔子履・漢高祖の剣など歴代の宝物が焼失)など災異が相次ぐ。
- 匈奴の郝散が上黨で反乱を起こし鎮圧されるが、弟の郝度元が羌・胡と結んで再び蜂起し、晋軍を撃破する。趙王倫は寵臣孫秀に牽引されて対応を誤り、雍州刺史解系との対立もあって戦況は悪化。梁王肜への交代後、氐族の斉万年が皇帝を僭称して涇陽を包囲する。
周処の最期
- 中書令陳準は、討伐軍の統帥夏侯駿と梁王肜がいずれも将才に乏しく、忠勇な周処が孤立無援のまま死地に陥ると懸念し、精鋭の先導部隊を別に立てるよう進言するが容れられない。
- 周処の若き日の逸話(郷里の害となっていた自らの乱暴を悔い、南山の虎と長橋の蛟を退治して改心し、陸雲の勧めで学問に励み立身した経緯)が語られる。梁王肜はかつて自らの不正を弾劾した周処を恨んでおり、氐族討伐に借刀殺人の形で送り込む。
- 周処は後続部隊の来援がないまま五千の兵で七万の敵と戦うことを強いられ、梁王肜・夏侯駿の督促と欺瞞(盧播・解系の後詰めを約束しながら実行しない)により孤立。矢弾尽きるまで奮戦し、ついに戦死する。
評語
- 史書が「皇后が誅殺した」と書き「后」の字を冠しているのは賈后への嫌悪を示すが、亮・瓘にも招いた咎があり、瑋の死もさほど惜しむに値しないと評する。
- 亮は繇を遠ざけ瑋を呼び戻すなど自ら墓穴を掘り、瓘も早く退くべきであったのに亮と運命を共にして悍后に殺されたとし、権力欲の危うさを説く。瑋は賈后のために楊駿を除きながら自らも同じ手口で葬られた因果を指摘する。
- 梁王肜の私怨による周処の陥死は、周処個人の悲劇にとどまらず晋室にとって大きな損失であったとし、当時の晋の諸王が瑯琊王・扶風王・齊王攸を除いて概して不徳であったことが、こうした混乱の背景にあると総括する。