遼史卷一百十 列傳第四十 張孝傑

累進と専横

張孝傑、建州永霸県の人。家は貧しかったが学を好み、重熙二十四年、進士第一に及第した。清寧年間に枢密直学士に累進したが、奏事の誤りにより恵州刺史に出された。まもなく召し戻されて旧職に復し、戸部司事を兼知した。三年、参知政事・同知枢密院事となり工部侍郎を加えられ、八年、陳国公に封じられた。帝は孝傑の勤勉さを頼りにし、たびたび政務を問い、北府宰相として漢人の中で並ぶ者のない寵幸を得た。太康元年、国姓(耶律)を賜った。翌年秋の狩猟で帝が一日で鹿三十頭を射て侍従の官と酒宴を開いた際、「雲は天に上る」との詩を作らせ、詔して孝傑を御榻の傍に座らせた。帝が『詩経』黍離篇の「我を知る者は我が心を憂うと謂い、我を知らざる者は我が何を求めんと謂う」を誦すると、孝傑は「今、天下は太平です、陛下に何の憂いがありましょうか、四海を富み有し、陛下に何の求めがありましょうか」と奏し、帝は大いに喜んだ。三年、群臣が侍宴した際、帝は「先帝は耶律仁先や華格を賢智と評価して用いた、朕には孝傑と伊遜がいるが、仁先や華格に劣らず、まことに人材を得たものだ」と語り、夜まで歓飲した。この年、伊遜が皇太子を讒言した際、孝傑もこれに加担し、伊遜が皇太子の党人を取り調べる詔を受けた際にも、忠良を陥れる謀の多くは孝傑によるものであった。伊遜は孝傑を「社稷に忠実」と推薦し、帝は孝傑を狄仁傑になぞらえて「仁傑」の名を賜り、鶻を放って狩ることを許した。六年、伊遜が失脚した後、帝も孝傑の姦悪を悟り、まもなく武定軍節度使に出された。広済湖の塩を私販し、詔旨を勝手に改めた罪に問われ、爵を削られ安粛州に貶謫された。数年後、故郷で没した。乾統初め、棺を暴いて屍を戮し、その家産を臣下に分け与えた。孝傑は長く相位にあり貪欲で飽くことを知らず、親戚と酒宴を開くたびに「黄金百万両なければ宰相の家とは言えない」と語っていたという。かつて孝傑が科挙に及第した際、寺に詣でると突然強風が吹いて幞頭が仏塔とともに地に落ち砕けたため、老僧が「この人は必ず急に貴くなるが、その最期を得ることはないだろう」と言い、その言葉通りになった。