序
- 漢は璽書を二千石に賜い、唐は刺史・県令を屏風に疏して奨率を示した。ゆえに両史には循吏・良吏の伝がある。遼は太祖が創業し太宗が燕薊を撫有してより、賢を任じ能を使う道もほぼ備わった。ただ朝廷は国官を参置し、州県を吏する者は多く唐制に遵った。世を経るに従い選挙はますます厳しくなり、時には重臣を分遣して境内を巡行させ賢否を察してこれを進退させた。これにより民を治め財を理し獄を決し盗を弭める者にはそれぞれ人材があった。その徳政を考えれば、諸々の循良の列に列するには未だ足らずとも、能吏と称すべきである。よって能吏傳を作る。
出自と経歴
- 大公鼎は渤海人。先世は遼陽率賔縣に籍し、統和年間遼東の豪右を中京に実らせる際、大定に家した。曾祖の忠禮は賔使、父の信は興中主簿。
- 公鼎は幼くして荘厳純朴、長じて学を好み、咸雍十年進士に登第し瀋州觀察判官に調された。
- 当時遼東で雨水が稼を傷めた際、北樞密院は瀕河の丁壮を大いに徴発し堤防を完うしようとし、有司は令を承けて峻急であったが、公鼎は独り「辺障がやっと平静になったところで大興の役事は国を利し農を便ずる道ではありません」と言い、事を疏奏し朝廷はこれに従い役を罷めた。水害もそのために炎(拡大)しなかった。瀕河千里の人は皆悦んだ。
- 良鄉令に改まり徭役を省き農桑に務め、孔子廟学を建て、部民は徳に服した。累進して興國軍節度副使となった。当時鷹坊に隷する者が羅畢の名を借りて田里を長年にわたり擾害していたが、公鼎はこれを上に言い、直ちに禁戢が命じられた。折しも公鼎が朝に参内した際、大臣が上がこれを嘉納した意を伝えると、公鼎は「一郡が安を獲たのは誠に大幸ですが、他郡にも同様に困る者が多くいます、願わくはその賜を天下に均しくしてください」と述べ、これに従われた。
- 長春州錢帛都提㸃に徙る。車駕が春水に行幸した際、貴主の例により借貸を求められたが、公鼎は「どうして官用を止めて人情に従えようか」と拒み、頗る怨嗟の言を聞いたが「これは私の職務であり廃するわけにはいかない」と語った。
- まもなく大理卿を拝し、多くの冤罪を平反した。天祚が即位すると長寧軍節度使・南京副留守を歴任し、東京户部使に改まった。当時盗人が留守蕭保先を殺しその財を得たことをきっかけに乱を唱え、民もまた互いに猜忌を生じ家々で相争っていたが、公鼎は単騎で郡を巡り禍福を説き、皆兵を投げ捨てて拝し「これは私たちを欺くものではない、命に従わないわけがない」と言い、安んじられ従前のように治まった。
- 中京留守を拝し貞亮功臣を賜り、伝馬に乗って赴任した。当時盗賊が充斥しており、公鼎に道で出会う者は馬を止めて自新を乞い、公鼎は符約を給して生業に戻らせ、聞いた者は次々と至り、旬日ならずして境内は清粛となった。天祚はこれを聞いて保節功臣を加賜した。
- 当時人心が不安定であったため、公鼎は恩恵を布いて安んじるよう請い、大赦が行われた。公鼎は累表して帰郷を願ったが許されなかった。折しも奴隷出身の賊張薩巴が無頼を率いて蜂起し、公鼎はこれを撃とうとしたが力及ばず、「私は事を退くことを願って久しいのに、世故に牽かれてこの不幸に至った。これも運命だろうか」と嘆いた。憂憤のあまり病を得て、保大元年卒した。享年七十九。子の昌齡は左承制、昌嗣は洺州刺史、昌朝は鎮寧軍節度使となった。