出自と経歴
- 蕭文は字を國華といい、外戚の賢者。父の直善は安州防禦使。文は篤志で学に力を注ぎ、喜怒を表に出さなかった。太康初め秦越國王の中丞司事を掌り、才幹をもって称された。
- まもなく北面帖黄で王邦彦の子が廕を争って数年決着しなかった訴訟があり、有司がこれを上聞すると、上は文に詰問させたところたちどころに決した。
- 車駕が宮に還ろうとする際、詔を承けて儀衛を閲習させたが、執事は林林(多く)としていても指顧は一つのようにまとまっていた。同知奉國軍節度使に遷り、國舅都監を歴任した。
- 壽隆末、易州を知り西南面安撫使を兼ねた。高陽(易州)は土地が肥沃で民が富み、その邑に吏する者は毎に財貨を貪り民は大いに苦しんでいたが、文が着任すると旧弊をことごとく去り、農桑に務め礼教を崇め、民は皆これに感化された。
- 当時大旱が続き百姓は大いに憂えたが、文が祈るとたちまち雨が降った。属県でまた蝗害が発生し捕殺しようとの議があったが、文は「蝗は天災であり捕っても何の益があろうか、ただ自らを省みて反省すべきだ」と言い、蝗はことごとく飛び去り、残った者も苗を食べず草莽に散って烏鵲に食べられた。折しも霪雨が止まなかった際も、文が祈ると再び晴れた。この年は大熟であった。
- 朝廷は文を大用すべきとし唐古部節度使に遷らせた。高陽の人はこれを石に刻んで頌えた。後の消息は不明である。