遼史卷一百四 列傳第三十四 耶律孟簡

出自と経歴

  • 耶律孟簡は字を復易といい、裕悦烏哲の五世の孫。父の劉嘉努は官が節度使に至った。孟簡は性が頴悟で、六歳のとき父が朝早く狩猟に出る際「暁天星月」の詩を賦させると、孟簡は応声して作り、父は大いに驚いた。
  • 成長すると文をよくし、太康初め樞宻使耶律伊遜が姦険で権を窃み中京留守に出された際、孟簡は耶律庶箴とともに表で賀した。まもなく伊遜が旧職に復すと、これを恨みに思い孟簡を磁窯關に謫巡させた。讒言によって遠ざけられたとはいえ、辞色に表さず、林泉の勝地に出会えば終日帰るのを忘れるほどであった。
  • 翌年、保州に流された際、皇太子が害されたと聞き哀痛に堪えず、詩でこれを悼み放懐詩二十首を作った。自ら序して「禽獣にも哀楽の声があり螻蟻にも動静の形がある、まして人においてをや。しかし賢達の哀楽は窮通禍福の間にはない。易に『天を楽しみ命を知る、ゆえに憂えず』とある。ゆえに顔淵は簞瓢自得した、これは命を知って楽しむ者である。私は流放されているとはいえ道をもって自ら安んじる、何を疑うことがあろうか」と述べた。
  • 太康中、初めて郷里に帰ることができ、闕に詣でて上表し「本朝の興隆はほぼ二百年に及び、国史を作って後世に伝えるべきです」と述べ、耶律嚇嚕・烏哲・休格の三人の行事を編集して進めた。上は命じて局を置き編修させた。
  • 孟簡は他の官吏に「史筆は天下の大信であり、一言の当否を百世が従う。もし明識がなく好悪に流されれば禍は測り知れない。ゆえに左氏・司馬遷・班固・范曄はみな殃禍に遭った、慎まずにいられようか」と語った。
  • 乾統中、六院部太保に遷り、文法にこだわらず事を処理したため多くの者に迂遠と笑われたが、孟簡はこれを聞いて「上古の時代には簿書法令がなくとも天下は治まった。簿書法令はかえって姦倖を助長するに過ぎず、聖人が治を致す本ではない」と語った。
  • 髙州觀察使に改まり学校を修めて生徒を招き、昭德軍節度使に遷った。中京が飢饉に遭うと、詔により学士劉嗣昌とともに減価で穀を糶ることを命じられたが、事が未だ終わらぬうちに卒した。