托卜嘉
- 托卜嘉、字は和爾沁。清寧2年(1056年)、祗候郎君に補され、たびたび昇進して永興宮使となった。重元の乱を平らげたことをもって忠正軍節度使を遙授され定乱功臣を賜り同知殿前点検司事となった。高陽・臨海の二軍節度使・左皮室詳衮を歴任した。
- 太康6年(1080年)、西北路招討使を授けられ諸部酋長を率いて入朝し兼侍中を加えられた。蕭達魯が招討となって以来、朝廷は姑息を務め柔愿な者を選んで用いることが多く諸部は次第に跋扈するに至ったが、托卜嘉の含容はことに甚だしく辺防はますます廃れた。
- 間もなく西南面招討使に改まり、準布酋長磨古斯が来侵し西北路招討使和囉木薩噶が戦に不利であると、詔して托卜嘉に代えさせた。磨古斯は酋長となったのは托卜嘉の推薦によるものであり、この時人を遣ってこれを誘致した。磨古斯は詐って降ると称し、托卜嘉は鎮州西南の沙磧の間で迎え、士卒に妄動させないよう禁じたが、敵が到ると裨将耶律鳥蘇・徐烈はその勢の鋭さを見て戦わずに走り、遂に害された。年58。侍中を追贈され諡は貞憫。
- 托卜嘉は少くして謹愿であったが、後に旌嫠婦に惑わされてその妻を出し、終に子が無いことをもって人々はこれを譏った。