遼史卷九十六 列傳第二十六 耶律良

耶律良

  • 耶律良、字は錫納、小字は蘇。著帳郎君の後で乾州に生まれた。読書は医巫閭山に学び既に博く、将に南山に入って肄業しようとした際、友人がこれを止めて「そなたは僕御なく千里を駆けようとしている、縦え古人の見聞に及んでも年も既に暮れかかる、今もし仕えれば既に余地がある」と言ったが聞かず、数年留まって帰った。
  • 重熙中、寝殿実達爾に補され、間もなく燕趙国王の近侍となり、家貧をもって詔して廐馬に乗らせ、修起居注に遷った。折しも秋山で狩をした際、良は「秋游賦」を進め上はこれを嘉した。清寧中、上が鴨子河に幸し「捕魚賦」を作ると、これにより寵遇はやや隆んになり、知制誥兼知部署司事に遷った。
  • 御製の詩文を編むことを奏請し『清寧集』と題した。上は良の詩を『慶会集』とし自ら序を製した。間もなく敦睦宮使兼権知皇太后宮諸局事となった。良は重元が子尼嚕古と共に乱を謀っていることを聞き、帝が親愛に篤いことをもって遽に奏することができず皇太后に密かに言った。太后は疾を託して帝を召しその事を告げた。帝は良に「そなたは我が骨肉を離間しようとしているのか」と言うと、良は「臣がもし妄言であれば甘んじて斧鑕に伏します。陛下が早く備えなければ賊計に堕ちる恐れがあります。もし尼嚕古を召して来なければその事を占うことができます」と奏し、帝はその言に従った。
  • 使者が門に及ぶと尼嚕古はこれを害しようとし帳下に羈束したが、使者は佩刀で帟を断って出て行宮に馳せてその状をもって聞こえさせた。帝は初めて信じ、乱が平らぐと功により漢人行宮都部署に遷った。咸雍初め、同知南院樞密使事となり特哩衮となり、中京留守事を知り出て、間もなく卒した。帝は嗟悼し重臣を遣って賻祭し葬具を給し、遼西郡王を追封し諡は忠成。