遼史卷九十六 列傳第二十六 耶律仁先

出自と生い立ち

  • 耶律仁先、字は扎林、小字は扎拉。孟父房の後で父貴音は南府宰相、燕王に封ぜられた。仁先は魁偉爽秀で智略があった。重熙3年(1034年)、護衛に補され、帝が政を論じるとその才を認め、仁先は不世の遇をもって言うことに隠す所がなかった。宿直将軍を授けられた。

重熙年間、宋との対応と夏国征伐

  • たびたび昇進して殿前副点検となり、和拉唐古部節度使に改まり、間もなく召されて北面林牙となった。重熙11年(1042年)、北院樞密副使に陞った。時に宋が十県の地に相当する歳幣の銀絹の増加を請うと、仁先は劉六符と共に宋に使いし書貢を議した。宋がこれを難ずると、仁先は「昔、石晋は徳に報い本朝に地を割いて献じたが、周人はこれを攘って取った。是非利害は灼然として見える通りだ」と言うと、宋は対うる辞が無かった。ここに議は定まり銀絹十万両匹を増し貢と称すこととした。
  • 帰るに及び同知南京留守事となった。重熙13年(1044年)、夏を伐つ際、仁先は留められ辺を鎮め、間もなく召されて契丹行宮都部署となり、王子班郎君及び諸宮雑役の復置を奏した。重熙16年(1047年)、北院大王に遷り、両院の戸口が殷庶であることから他部の助役を免じることを奏請しこれに従われた。
  • 重熙18年(1049年)、再び夏を伐つ際、仁先は皇太弟重元と共に前鋒となった。蕭恵が河南で失利しても帝はなお進兵しようとしたが、仁先は力めて諫めこれを止めさせた。後、北院樞密使を知り東京留守に遷った。女直が険を恃んで侵掠をやめないと、仁先は山を開き道を通じてこれを控制することを乞い、辺民は業に安んじた。呉王に封ぜられた。

清寧年間の重元の乱平定

  • 清寧初め、南院樞密使となったが耶律華格に譖られ南京兵馬副元帥・守太尉として出され、隋王に更封された。清寧6年(1060年)、再び北院大王となり、民は数百里にわたり歓迎し父兄に見えるかのようであった。時に北南院樞密の尼嚕古・蕭呼都克らはこれを忌み、仁先を西北路招討使とすることを請うと、耶律伊遜は「仁先は旧臣で徳は一時に冠たる者です、外に補すべきではありません」と奏し、再び南院樞密使を拝し許王に更封された。
  • 7月、上が太子山に狩をした際、耶律良は重元が謀反を企てていることを奏し、帝は仁先を召してこれを語ると仁先は「この輩は兇狠、臣は固より疑っていました」と言った。帝は仁先にこれを捕えるよう促し、仁先は出る際「陛下は謹んで備えをなさるべきです」と言ったが、まだ甲馬もしないうちに重元が帷宮を犯した。
  • 帝が北南院に幸そうとすると、仁先は「陛下がもし扈従を舎てて行かれれば、賊は必ずその後を躡みます。まして南北大王の心はまだ分かりません」と言った。仁先の子托卜嘉は「聖意にどうして違えられましょうか」と言うと、仁先は怒ってその首を撃った。帝は悟り悉く仁先に討賊の事を委ねた。
  • 仁先は車を環らせて営とし行馬を拆いて兵仗を作り、官属・近侍三十余騎を率いて陣を枑外に抵いた。交戦に及ぶと賊衆の多くが降り、尼嚕古は矢に中り馬より墜ちて擒えられ、重元は傷を被って退いた。仁先は五院部蕭塔喇の居所が最も近いことをもって急ぎこれを召し、人を分遣して諸軍を集めた。
  • 黎明、重元は奚人二千を率いて行宮を犯したが、折しも蕭塔喇の兵が至った。仁先は賊勢が久しく保てないことを料り、その気が沮むのを竢って攻めることとし、営を背にして陣し便に乗じて奮撃すると賊衆は奔潰し二十余里追殺した。重元は数騎と共に遁げ去った。
  • 帝は仁先の手を執って「乱を平らげたのは皆そなたの功である」と言い、尚父を加え宋王に進封し北院樞密使とし、自ら文を製してこれを褒め、詔して灤河戦図を画いてその功を旌した。

咸雍年間、伊遜との確執

  • 咸雍元年(1065年)、裕悦を加え遼王に改封し、耶律伊遜と共に北院樞密事を知った。伊遜は寵を恃んで不法であり、仁先はこれを抑え、これにより忌まれ南京留守として出され晉王に改まった。孤惸を恤み奸慝を禁じ、宋はその風を聞いて震服した。識者は裕悦休格以来ただ仁先一人のみと言った。
  • 準布達爾罕が反乱を起こすと仁先を西北路招討使とし、鷹・紐印及び剣を賜り上諭して「そなたは朝廷を去ること遠く、奏行を待てば機会を失う恐れがある。便宜に従って事を処すべきだ」と言った。仁先は斥堠を厳しくし敵の衝を扼し服従する者を懐柔し、庶事は整飭された。
  • 達爾罕が再び侵冦してくると仁先はこれを逆撃し八十余里追殺し、大軍が続いて至って再びこれを敗った。巴爾斯・土黙特らの部が救いに来たが、その屡挫を見て敢えて戦わず降り、北辺は遂に安んじた。
  • 咸雍8年(1072年)卒した。年60。遺命で家人に薄葬させた。弟義先・信先には共に伝がある。子は托卜嘉。