耶律納延
- 耶律納延、字は伊実年。額爾竒木博果済の後。父斡常は北剋として夏を伐つに従い戦歿し、季父卓克算は宿直官となりたびたび昇進して北面林牙に至った。咸雍4年(1068年)、北院大王を拝し西南面招討使に改まった。太康中、西北諸部が辺を擾すと討ちに行くことを議し、帝は卓克算でなければならないとして西北路招討使兼行軍都統を拝させこれを平らげ、その功により再び北院大王となった。
- 納延は敦厚で才敏であった。上はその父斡が王事に死んだことをもって9歳で諸衛小将軍を加え図哩司徒とし、間もなく召して宿直官とした。太康3年(1077年)、約尼剋となり、大安9年(1093年)倒塌嶺節度使となった。
- 翌年冬、北準布の長磨古斯が反乱を起こすと、招討都監耶律呼哩と共に精騎を率いて討ちに行きこれを破った。納延は呼哩を漢人行宮副部署に薦めた。寿隆初め、再び達勒達・博索摩らを討って功があり、詔して褒美を賜り烏爾古徳哷勒統軍使に改まった。辺境は寧んじ部民が留任を乞うと詔して再任を許した。
- 乾統6年(1106年)、中京留守を拝し北院大王に改まり、薨じた。納延は人となり廉介で理民に長じ、闘訟があるたびに親ら曲直を覈し威厳を尚ばず、常に「およそ人を治めるとは元々是非を分別しようとするものだ、何ゆえに迫脅して名を立てる必要があろうか」と言った。ゆえに至る所で恵化をもって称された。