蕭托輝
- 蕭托輝、字は烏庫哩。宰相轄達の六世孫。剛直で威重があった。咸雍初め、馬羣太保に任じられ、群牧が名は存するが実は亡いことを知っており旧籍を悉く閲して羸病を除き実数を録し、牧人は畏服した。
- 托輝は上書して「群牧は少を多とし無を有としており、上下相蒙って積弊が風となっています。見在の真数を括って定籍を著すのに如きません。公私両方に済います」と言い、これに従うと畜産は歳ごとに繁殖した。太康中、たびたび昇進して契丹行宮都部署となった。
- 上はかつて群臣に「北樞密院の軍国重任は久しくその人を欠いている。耶律阿蘇と蕭額特埒の二人はどちらが優れているか」と問い、群臣は各々その所長を誉めたが、托輝独り黙然としていた。上が「そなたはなぜ言わないのか」と問うと、托輝は「額特埓は懦弱で事を敗り、阿蘇は才あれど貪で将に禍の基となりましょう。やむを得ず用いるなら、事を敗る方が禍を基すよりまだましです」と言った。
- 上は「そなたは魏徴でも過ぎることができまい。ただ恨むらくは吾が太宗に及ばぬことだ」と言ったが、竟に阿蘇を樞密使とし、これにより阿蘇はこれを恨んだ。太康9年(1083年)、西圉が不寧となると、阿蘇は「辺隅の事は大きく、重臣を選んで鎮撫すべきです」と奏し、上が「托輝はどうか」と言うと、阿蘇は「誠に聖旨の通りです」と言い、遂に西南面招討使を拝された。
- 阿蘇は密かに蕭阿古岱と共に誣奏し、賊が漠南の牧馬及び居民の畜産を掠めた際、托輝が急ぎ追捕しなかった罪が死に当たるとした。詔して官を免ぜられ、久しくして塔布城節度使として起用されたが、未だ行かぬうちに疽が背に発して卒した。
- 托輝は負気で怒れば須髯すぐ張り、大議あるたびに必ず毅然としてこれを決した。上に難色があっても遽に已めず、権貴を見ても少しも屈することがなかった。竟に阿蘇に陥れられ、時人はこれを惜しんだ。二子、図們・錫実は阿蘇の死後初めて進用された。