遼史卷八十九 列傳第十九 楊佶

楊佶

  • 楊佶、字は正叔。南京の人。幼くして頴悟なること尋常でなく、読書して自ら句を成し、識者はこれを奇とした。弱冠で声名籍甚たり、統和24年(1006年)進士第一に挙げられ、校書郎・大理正を歴任した。
  • 開泰6年(1017年)、儀曹郎に転じ書命を掌り諌議大夫を加えられ、易州知として出て治は清簡を尚び徴発期会は必ず信であった。入って大理少卿となり、たびたび昇進して翰林学士となり文章は体を得ていると称された。
  • 開泰8年(1019年)、燕地が饑疫となり民の多くが流殍したため、佶を同知南京留守事とし倉廩を発いて乏を振い貧民で子を鬻ぐ者を計傭して出させた。宋が梅詢を遣り千齢節を賀すと詔して佶が迎送し多く唱酬した。詢はたびたびこれを称賞した。再び翰林学士となり、重熙元年(1032年)翰林学士承旨に陞った。
  • 母憂に丁って起復し工部尚書となり、忠順軍節度使・朔武等州観察処置使・天徳軍節度使を歴任し、特進検校太師同中書門下平章事を加えられ、再び参知政事兼知南院樞密使を拝した。重熙15年(1046年)、武定軍節度使として出た。境内が亢旱で苗稼が枯れかけていたが、視事の夕に雨沢が霑足し、百姓は「何をもって我らを蘇らせようか、上天は雨を降らせた。誰が我らを撫でるだろうか、楊公が主である」と歌った。
  • 㶟陽水が故道を失い毎年民の害となっていたため、己の俸をもって長橋を創り人は渉を病まなくなった。召されるに及んで群民は轅に攀り泣いて送った。上は清涼殿に御して宴労し、即日吏部尚書兼門下侍郎同中書門下平章事に除された。上は「そなたは今日、呂望が文王に遇されたことにどれほど劣るか」と言うと、佶は「呂望は臣に比べれば十年の晩さがあります」と対えた。
  • 上はその居相位を悦び、進賢をもって己の任とし事は大綱を総べ百司に責成させ、人々は喜んでこれに用いられた。三たび致政を請い許され、月給の銭粟・傔隷を四時に使を遣って存問された。卒した。「登瀛集」が世に行われた。