耶律華善
- 耶律華善、字は特黙。季父房の出で、滑稽を善くした。重熙初め、祗候郎君に補され、時に帝は親親に篤く、三父の後は皆父兄の行第に序され、華善は特に狎愛されたが、宴飲に侍るたびに詼諧をなしても一言も過つことがなく、これにより上はますます重んじた。
- 積慶・永興宮使を歴任し、たびたび昇進して同知南院宣徽使事・南面林牙に至った。重熙16年(1047年)、懐化軍節度使として出て、間もなく召されて御史大夫となった。重熙23年(1054年)、大冊により天平軍節度使検校太師を加えられ、中京路案問使に徙り卒した。
- 華善はもとより美行あり、しばしば財をもって親友を恤み人は皆愛重したが、酒を嗜んで事を事とせず、そのため柄用されなかった。あるいはこれを言う者があると答えて「私が知らぬわけではない。人生は風前の灯・石火のごとし、飲まねば何をしようか」と言った。晩年沈湎はますます甚だしく、人は「酒仙」と称した。
史論
- 論じて言う。庶成が法令を定めたのは、民を治める者は手心を加減してはならぬことを示す。庶箴はかつて表を上して姓氏を広げ典礼を整えることを請うたが、その勢に随って俯仰したのは、子の冨魯に対して恥じるところがある。楊晳は上の寵遇を得てたびたび王爵に封ぜられたが、功業はさほど概見しない。愛民治国の要を得たのは楊佶であろうか。