耶律揚珠
- 耶律揚珠、字は布爾錦。積慶宮人で、父海古勒は室韋部節度使。揚珠は篤学廉介で経世の志があった。統和10年(992年)、たびたび昇進して積慶宮使となった。聖宗はかつて揚珠に「そなたの正直を聞いて進用した。国に利害あれば言を隠すな」と諭し、これにより陳ずるところの多くが嘉納された。
- 上が高麗を征し銅州で康肇の軍を破った際、揚珠の力によるところが多かった。王詢が降を乞うと群臣は皆納れるべしと議したが、揚珠は「王詢は初戦で敗れたばかりで急ぎ款を求めるとは詐りである。これを納れればその奸計に陥る恐れがある。その勢が窮まり力が屈するのを待ってから納れても遅くはない」と言った。やがて詢は果たして逃げ、清野して得るものはなかった。
- 敵は険に阻んで塁を築き攻めても抜けなかったが、揚珠は計をもってこれを降した。四畨部詳衮を拝され、当時招討使耶律博廸が総管であったため揚珠はその下に居ることを恥じ、表を上して「臣は先朝の旧臣、今既に老いており、旧命を還してもらい常侍として左右に侍ることを願います」と言った。帝は「朕はそなたを久しくこの任に留めない」と言い、招討に隷さず専奏事とした。任地に到ると暴を戢め善政を懐い政績が顕著であった。官にて卒した。