遼史卷八十八 列傳第十八 耶律資忠

字は烏延、小字は札拉。兄果囉が誣告により誅されたことに世人は寃を思った。聖宗に才を認められ宿衛に召され、高麗との交渉の使者として長く抑留されたが帰国後は厚遇された。晩年は讒言により鎮に帰され卒した。

年表(2件)
  • 開泰4年1015年再び高麗に使いするが留められ帰らせてもらえず
  • 開泰9年1020年高麗が謝罪し資忠を送り還す。帝は郊に迎え宴労させ、林牙知特哩衮事とする

耶律資忠

  • 耶律資忠、字は烏延、小字は札拉。仲父房の出で、兄果囉は属文を善くし聖宗に重んじられた。時に妻弟の妻阿古が奴と通じ女直国へ奔ろうとしたため、果囉はこれを追いついて奴を殺した。阿古は自経し、阿古の母は太后の寵愛を受けていたためこれが聞こえると太后は怒り果囉を殺そうとした。帝は救えないと察し人を遣って訣別し後事を問うと、果囉は謝して言った。「陛下が臣の無辜を憫れんでくださった恩は九泉に漏れ、死しても朽ちません」。既に死すと人の多くはこれを寃と思った。
  • 獄中で「兔賦」「寤寐歌」を著し世に称された。資忠は博学で辞章を工み、年40にして未だ仕えなかったが、聖宗はその賢を知り宿衛に補い召し、しばしば古今の治乱を問うと資忠は隠すことなく対えた。開泰中、中丞の眷遇を受け日に隆んになった。
  • 初め高麗が内属した際、女直六部の地を取ってこれに賜っていたが、この頃貢献が滞りがちであったため、詔して資忠を遣り故を問わせたところ高麗には地を帰す意がなく、これにより権貴からしばしば非難され上京副留守として出された。開泰4年(1015年)、再び高麗に使いしたが留められ帰らせてもらえなかった。資忠は君親を懐うたびに著述をなし「西亭集」と号した。帝は群臣と宴する際、時にこれを記憶して「資忠にもこの楽しみがあろうか」と言った。
  • 開泰9年(1020年)、高麗が表を上して謝罪し、初めて資忠を送り還した。帝は郊に迎え同載して帰り、大臣に命じて宴労させ禁中に数日留めて「朕はそなたを屈して樞密にしようと思うがどうか」と言うと、資忠は「臣は不才、詔を奉じられません」と対えた。そこで林牙知特哩衮事とされた。
  • 初め資忠が高麗にあった際、弟昭は著帳郎君として罪に坐し家産を没していたが、この時横帳に復し旧産も還され、外戚の女をこれに妻せられた。当時樞密使蕭和卓・少師蕭巴格が寵を得ていたが、資忠は俛付せずこれを詆り、帝は怒って官を奪った。数歳して来遠城事を知るに出され、保定・昭徳の二軍節度使を歴任した。
  • 聖宗崩御に会葬を表請し、既に至ると梓宮に伏して大慟し「臣は幸いにも聖明に遇い、横に搆譛を被り、犬馬の報を尽くせませんでした」と言い、気絶して蘇った。興宗は医を命じて疾を治させたが、久しくして国舅侍中に憂国の心無しとの言が上に達し陛下に再び用いるべきでないとされ、唐の景福の旧号を用いさせようとした。時の用事者はこれを悪み鎮に帰され卒した。弟昭に伝がある。